2009年1月14日水曜日

パゾリーニによるオイディプース王(1~10)



                                                               

1  サチーレの街道
野外。昼。


遅い午後の陽射しの中に、一筋の街道と一軒の家が見える。田舎町の奥の遅い午後の陽射しの中に。そんな時刻には──静けさと無、──そして蠅がいる。
野辺は家並の裏手すぐにまで迫っている。しかしプチブルたちの、慎ましい家並だ。
それぞれの家には蔓棚に、雨樋、玄関には小さな軒縁がある。みな、この後背地を何世紀にもわたって支配した海の都市の貴族の痕跡だ。そう、太陽のほかには何もないだろう。たぶん、小学校の子供がふたり、兵隊がひとり、通るかもしれない。
けれども軍服は一九三〇年代の歩兵のものだろう。



2  サチーレの家
屋内。昼。


家の中ではひとりの女がついいましがた子を生んだところだ。女は、見えない。見えるのは、産婆の両手に抱えられた、生まれたばかりの赤ん坊だけだ。
迅速なドキュメンタリーフィルムを見るかのように観客は、あの人生の最初の瞬間、産声、光への初めての眼差し(鎧戸の隙間から、イドリアの刺繍入りの未加工の布地のカーテン漉しのあの太陽)に立ち合うことになる。



3  リヴェーンツァ川に沿って
野外。昼。


牧場に一枚の毛布。赤ん坊が日向で幸せそうに手足をばたつかせている。彼は小さな目を開けている。お腹はすいてないし、眠くもなくて、元気いっぱい、その時を平和に楽しんでいる。
もしも連れてゆかれるときには──そして二本の手が彼を掴んだが──連れてゆかれるままに任せている。牧場じゅうを連れてゆかれる──ゆっくりかと思えば、走りに走って──運ばれるに任せている。彼のまわりにあるのは、娘たちの腕や脚だ。顔までは、彼には見えない。現実を切れ切れに見る、彼を捕まえる腕たち、辺りを走り回る脚たち、彼、赤ん坊から見れば、それは気の狂ったように走り回る、愉快なかーごめかごめだ。
二本の腕からほかの二本の腕へと移る、その腕たちが胸元へそっと彼を締めつける。
たぶん、辺りには木々、とねりこや黍や柳、とりわけ柳が切れ切れに見えたかもしれない。柳の木立はその長くて涙に濡れた葉を恐ろしい無、闇、何かこの地上のものではないものの上に垂らしている。
いまは赤ん坊の楽しげな頭の上で、いくつもの手が葉っぱを揺り動かし、あたりには娘たちの笑い声とふざけあう声々が響きわたる。また走り出す、辺りにはいくつもの手、腕、脇腹、脚。赤ん坊の目の高さにあるものは何もかも。そして田舎の奥の午後の言うに言われぬあの太陽に包まれた、柳の木立。世界の神秘な一角。北も南もなく、そこから人生の始まる無限の穴。
柳の葉という葉が水面を舐めている。
脚たちがボートの舷側を跨いで、いくつかの手が岸を押し、ほかの手が櫂を掴む。そして辺りには、笑い声と愉快な声々。
いまは柳の木立は空と輝く雲をバックに過ぎてゆく。そして柳の銀色の影をバックに、いまはじっとしている娘たちの、肩、腰、腕が滑ってゆく。
ボートの進みゆくあいだに、赤ん坊は、笑いさざめきの中を、少女たちみなの腕の中を、安心しきって移されてゆき、最後に彼を胸元に抱き締める彼女の両腕の中にたどり着く。赤ん坊のまだ髪の毛の生え揃わない楽しそうな頭の上で、一九三〇年代の裾飾りのついた明るい色のブラウスのスナップを、片手が外すと、そこから真っ白な乳房が出てくる。赤ん坊は幸せそうに乳を吸い始める。そのうちにもボートは緑の水面を、柳の葉裏の稠密な銀色のあいだを、滑ってゆく。
長いあいだ幸せに乳を吸いおえてから、赤ん坊は光り輝く小さな眸を上げて、彼は初めて、そしてぼくらも、彼と一緒に初めて見る。
母親の顔を。
赤ちゃんのうえに屈みこんだ母親の顔。女王みたいに美しい女、目は斜めに長くて、韃靼人みたいで、残酷な甘美さに溢れている。
赤ん坊は笑う。そして、母親と一緒に、初めて、おのれのまわりの世界を見る。
陽射しに葉が透けて見える柳並木と川、
少女たちでいっぱいのボート、みな母親である少女の女友だちだ、
川の入江、そこでボートは岸に着き、その後ろは緑の牧場で、遠くの土手の上には、街道が通り、鉄道も通っているかもしれない。



4  麦打ち場
屋外。昼。


赤ん坊はベンチの上にいる。目を開けている。
何が起きるのか?
何者かが彼に近寄って眺めている、犬だ。
唖の太陽の中に失われて、人類は不思議なことをする。
麦打ち場の真ん中には小麦がある。人類はそれを殼竿で叩いている。
犬は立ち去り、やがて戻ってくる。
小児麻痺の幼い少年が赤ん坊の隣に坐っている。そして彼は笑いに笑う。立ち去りやがて戻ってくる、相変わらず笑っている。
埃を捲き上がらせながら小麦を叩く人類は、いまはみなこぞって走り去り、麦打ち場の奥の、どこかのアーチの中に消える。
それから一頭立て二輪馬車のまわりに戻ってくる。馬が赤ん坊のほんの二、三メートル先までやって来る。そして止まるやいなや、その糞の団子を落としはじめる。犬が行ってその臭いを嗅ぐ。
母親はあちらの下のほうの遠くで、ほかの人類たちといるが、彼らは彼女が女王でもあるかのように、その回りで立ち働いている。ある声が高く強く言っているのが、夢の中でのように、聞こえてくる。

下女の声  はい、若奥さま、はい、若奥さま

赤ん坊は泣き出す。
母親が駆けつけて両腕に抱き上げる。母親の腕の中で、赤ん坊はほかのことも見ることが出来る。
何事かに驚いて羽ばたいて飛び回る二羽の雌鶏。


5 兵営 屋外。昼。

母親は乳母車を押して兵営の中庭に入る。
陰気な建物が辺りを取り巻く、中庭の白い明るさの中を歩兵の兵隊が二、三人ばかり歩いている。
母親はなおも乳母車を押して「中隊本部」まで往く。見苦しい窓辺近くの、かぼそい日陰に乳母車を残してゆく。
〈中隊本部〉に入る。
空では、わずかばかりの燕が数羽、鋭く鳴き交わしている。遠くの大部屋からは、出入りの不可解な人声が聞こえてくる。
兵隊たちの唄声、あるいはリハーサル中の軍楽隊。
父親と一緒に〈中隊本部〉から母親が出てくる。父親は若い将校で盛装している。胸には斜めに群青色の飾り帯、銀色の垂れ飾りのついた肩章、陸軍中尉の階級章のついた丈高の軍帽、腰にはサーベルを吊るしている。
彼がやって来て、乳母車に近づくと、中を覗き込んで恐ろしい微笑みを投げかける。
赤ん坊は表情のない輝く小さな目で彼を見つめる。たぶん早くも無関心を装っているのかもしれない。
燕飛び交う空をバックに、そのプチブル戦士の軍服姿をくっきりと現して、父親が彼を見つめる。
悲劇の中でのように高らかに荘重に響く、おのれの内なる声を父親は聴く。

父親の内なる声 見よ、ここに息子がいる、こやつがこの世界でのおまえの場所で少しずつおまえに取って代わってゆくのだ。そうだ、おまえをこの世界から追い出し、おまえの場所をこやつが取ってしまうことだろう。おまえを殺すことだろう。彼はそのためにここにいるのだ。
彼はそのことを承知している。おまえから盗む最初のものは、おまえの甘美な花嫁だろう。おまえは彼女のすべてはおのれのものと思い込んでいるが、違うぞ。彼女へのこやつの愛がある。して彼女は、それはおまえも知るとおり、すでにこやつの愛に応えて、おまえを裏切っておる。その母親への愛ゆえに、こやつはその父親を殺すのだ。なのにおまえはどうすることもできない。どうすることも。

息子は黙って、父親を見つめる。ときおり小動物みたいに気を散らすが、それでもまた真剣にじっと彼を見つめだす。彼らは互いに分かりあったのだろうか? だからある種の曰くありげな諒解のもとに彼らは黙っているのだろうか?
あそこに少し離れて立つ母親も、若々しいあの甘く美しい花嫁も、その乳房の谷間でたぶんそのことを分かったのだ。微笑む、だがその微笑みは彼女の唇の上で凍りつく。彼女は身動ぎもせずに肝を潰して、まるで予知の暗がりを覗き込むかのように、じっとこちらを見つめている。
兵隊たちの唄声あるいは楽隊。


6 サチーレの家 屋内。夜。

ダイニングルームの中の、その揺り籠の中に赤ん坊はいる。
目は開いていて、待ちながら考えているように見える。
別の部屋へのドアの側柱ごしに母親が隙間見る。
赤ん坊は目を閉じる。たぶん眠っているふりをしているのかもしれない。

母親 眠ってるわ。

母親は隙間見した元の部屋へと戻る。両親の寝室だ。部屋の真ん中に大きなベッドがある。一方の壁際には衣装箪笥が置かれ、他方の壁には大きな窓があって、町の最後の家並とリヴェーンツァ川の柳並木に臨んでいる。
母親はまだ半裸のなりだ。なのに父親のほうはとうにきっかり身支度を終えて、すぐにも外出できる。いまいちど長靴に磨きを掛けるのに余念がない。
母親は夜会用の優雅な衣裳に袖を通す。化粧品片手に、鏡の前で長いあいだぐずぐずする。
父親が彼女に近寄り、あんまり美しいので、ついキッスする。長く、親密で、官能的な花婿花嫁のキッス。いまでは互いに恥じらいなどは無視している。
赤ん坊は、あちらの部屋で、目を閉じている。
両親は爪先立って、起さないように彼の前を通りすぎる。ちらりと彼を見るなり、まるで二人の泥棒みたいにもう外へ出る。
赤ん坊はなおも目を閉じたままでいる。
溶暗
赤ん坊は目を開いているが、泣かない。
いまではもう一歳以上、たぶん二歳かもしれない。
遠くから一九三〇年代に流行った歌の調べが聞こえてくる。「サンタ・ルチーアに」スローな曲だ。
赤ん坊は戸惑って辺りを見回すが、泣かない。
ゆっくりと、あの遠くの調べに導かれるかのように、上掛けを剥いで、小ベッドから降りて、露台に通じるドアのほうへ往き、ドアを開けて、露台のゼラニウムの鉢のあいだを分け入って、手すりの細工を施した鉄柵のあいだに小さな顔をもたせかけて眺める。
世界のとある夜の、とある田舎のある幼年時代の、あの場所には、あそこの下に中庭がある。星も見える月夜だ。蟋蟀と雨蛙の鳴き声は「サンタ・ルチーアに」の調べに覆われている。正面の家、三階のマンションが煌々と明りがついている。夜風がどのカーテンも膨らませて、夜目にもはっきりと白い。その後ろにいくつもの人影が混じり合って、微風に引きずられるように動く影もあれば、止まっている影も見える。
中庭の奥に(しかし中庭だろうか? それとも小広場だろうか?)泉があってその噴水が光っている。そこにはもっと遜った人びとが──年寄りたちが──敷居の上や、藁の解けた椅子や、ベンチに腰を降ろしている。子供たちさえ、たぶんオイディプースよりもほんの少ししか年上でないだろうに、民衆の子だから、それゆえもっと自由だから、とうに夜更かしには慣れっこで、彼らのための夜の中で活き活きしている。みな首を上に伸ばし伸ばし、旦那衆の祭りを眺めている。
風によって膨らみ、強い白色光によって内側から照らされたカーテンを背に、二つの影が来て止まる。影どころか二つの正真正銘のシルエットだ。衣裳からそれと知れる、父親と母親だ。互いに向き合って、横向きに見える。
とても間近に寄り添って、語り合っている。やがて抱き合って、踊り始める。
階下では、庭先で、叫び声と笑い声が沸き起こる。
小さな子供がふたり、四、五歳の男の子と女の子が、大人たちを真似て踊っている。
それからいきなり大音響。物凄い爆発で、地面も揺れるほどだ。そして引き裂くような閃光がいきなり家々の上塗りを白く剥きだして、事物から暗がりを乱暴に毟りとる。
するとたちまち喚声と、批評と、気遣ったりはしゃいだりする声が上がる。
新たな爆発、新たな引き裂くような閃光。
中庭の人びとは鼻を天に向けている。
三階の夜会の人びとは、窓辺に駆け寄って、カーテンも引きちぎりそうだ。小さなテラスで犇めき合っている。そして誰もが叫び、笑い、夜空の何かを指さしている。
赤ん坊は花火を見ることが出来ない。たぶん彼の目の前の空に落ちかかる流れ星のいくつかなら見ることもできただろう。けれども彼は何ひとつ見ない、恐怖に動顛して、目を閉じて、涙に盲ていたから。泣いてそこから離れない。手すりにしがみつき、おのれに起こることに対して何もできない仔牛みたいに絶望しきっている。
それなのにあちらの正面では、なんて大笑い、なんてお祭り騒ぎだろう。父親と母親も、抱きあって、笑顔で静かに、花火を見物している。引き裂くような閃光が不意に彼らを暗がりから毟りとり、チョークみたいに白く浮き上がらせながら、その夜の彼らの若々しい笑顔を定着する。
溶暗
赤ん坊は──いまは静けさが舞い戻り──大人めいた諦めとともにおのれの小ベッドへと足を引きずり、這い登って、横になり、目を閉じる。けれども夜は、その夜はまだ終わっていなかった。
ごく静かにドアが開いて、ダンスパーティから帰った両親が入ってくる。
彼らの赤ん坊の前を通りすぎ、なおも抱擁に縺れあったまま、彼を見つめる。
それから母親が上掛けを直し、小ベッドをきちんと直して、なおもぐずぐずしようとするが、焦れた父親が彼女をつれ去る。
彼らは抱きあって寝室に入ると、キッスしあい、急いで無言のまま服を脱ぎだす。
赤ん坊はあちらで、目を開けている。
いまはもう音楽も流れていないので、蟋蟀と蛙たちがどれほどしきりに、絶望的なくらいにしつこく鳴いているのが聞こえる。夏はその深みにある。熱気が事物の上に浮き出ている。開け放たれた窓からあの虫たちのコンチェルトが入ってくる。そしてリヴェーンツァ川の柳の木立の上に、街道に、平和な野辺に降りそそぐ月の光りも。
彼らの愛の大きなベッドの中では父親と母親が互いに重なりあって、その恥じらいも悪意もない性交の中で、キッスしあい、抱きあっている。
赤ん坊はあちらで、目を開けている。蟋蟀と蛙たちの鳴き声と一緒に、父親と母親の吐息が聞えてくる。大きなベッドの中では、両親の愛は長くて悠々としている。あの暑苦しくて馴染みの月が彼らのために明りを灯していてくれるのだから。しまいに父親は起き上がると、まさにそのときには母親の義務よりもどうしてか一層気高く真剣な、その義務でもあるかのように、行って赤ん坊の様子をみる。
赤ん坊はその揺り籠の中で、またしてもはだけてしまっている。しかし、目は閉じて、眠っている。
父親は彼の上に屈みこんで長いあいだ彼を見つめている。やがていきなり両手を伸ばすと、まるで粉微塵にしたいかのように、赤ん坊の小さな裸足を拳の中に握りしめる。



7 キタイローン山 野外。昼。

オイディプースの小さな身体の向こうには、アフリカ寄りの地中海の燃えあがる空をバックに、薔薇色の大きな山々。
彼の泣き声の辺りには、果てしない夏の無言ばかり。
その小さな身体は仔山羊みたいに、両手首と両足首とで棍棒に括りつけられている。頭はあおのけにのけ反って揺れている。
仔山羊のオイディプースをぶら下げた棍棒を担いだ男のゆっくりとした足取りにつれて、荒れ野の薔薇色の山の中腹がまわりを過ぎてゆく。
大地に割れ目が深ぶかと口を開けている。そして風によって滑らかになるまで削られた大きなテラスみたいな岩の裾襞が、無情にも晴れ渡って鉛のように重苦しい空に向けて迫りあがってくる。
乾いた血みたいに、最も黒ぐろとした赤い石目のある、あの陰気な薔薇色づくしの底に埋もれて、遠く、奥のほうに、陽炎も立たぬ大気をすかして、数本の椰子の繁る小さな谷のささやかな緑も見えてくることだろう。
吊るされて泣いているいたいけな小動物を棍棒で担いだ男が辺りを見回す。
そう、ここなら充分に人けもないし、どんな人の目にも触れるはずはない。小さな身体を岩の上に置いて、棍棒を抜き取る。夢の中でのように両手首を括った縄をほどく。やおら革帯から羊飼いの大きなナイフを抜き出して、振りかざし、赤子の喉を切り裂こうとする……
が、赤子が男を見つめる。長いあいだふたりは見つめあう。
赤ん坊は、そこの地面に裸で、足は縛られたまま。男はというと、農夫の面つきに戻っている。
やがて男は立ち上がり、棍棒を天におっ立てて、行ってしまう。
数羽の鷹が空に輪を描きながら、甲走った声で鳴いている。
血の色をした岩の間を一匹の蛇が滑ってゆく。


8 キタイローン山の別の場所 野外。昼。

なんて見事な小合奏を、コリントスの牛飼いとその見習いの少年はしているのだろう。
血迷った牝羊と牝牛たちが、荒れ野の山の薔薇色の峡谷の、緑の狭い谷でわずかばかりの草を食んでいる。そして家畜たちが食べながら夢の中でのようにその日を送っている間に、番人である彼ら二人は音楽に明け暮れる。
年配の牧人は彼もいくらか惚けた立派な百姓面をしている。ところが少年のほうはいっそ美男子なのだが、彼、若造は下僕の何たるか、てんで分っていない。あるいはまだそれを思い知る歳ではない。彼には関係ないことなのかもしれない。演奏者としての彼の快活な眸は、快活さと挑戦と優雅な無規律を撒き散らしている。
年上の男は真面目にその楽器を奏でる。その荒削りの奇妙な楽器から、当時もそしていまも永遠に、真実で民衆的な、この地上の神話である音楽が奏でられる。
やがて、不意に、ふたりは演奏を止める…… すると、唐突な音楽の中断のあとに続く短い無言の中に、泣き声が聞えてくる。
何が起きたのだろう?
ふたりは互いの瞳の奥を覗き込む。
どんな驚きが彼らを待っているにせよ──荒れ野の中の家畜たちの真ん中に暮らすあの退屈そのものの長い時間の海の中では──それは素晴らしい驚きだ。少年の笑いに溢れるその目はそのことを隠そうともしない。好奇心のほうが憐れみよりはずっと強いのだ、彼はそのことを繕ったりしない。
ずっと偽善者なのは年寄りのほうだ。ただ心配なふりをしている、賢い男だ。けれども牧人たちは二人とも立ち上がると、たちまち興奮にかられて駆け出し、泣き声に耳を欹てながら、獲物を追い立てる猟犬みたいに走りに走る。
岩の間を縫って走り、穴や割れ目を跳び越して、風に削られて滑らかになった岩床に舞い上がる。
泣き声がますます近くから聞えてくる。見よ、あそこに、赤ん坊が岩の上に裸で泣いている。
二人は赤ん坊の上に屈み込み、年寄りが彼を抱き上げて、女たちがやっていたのを見かけたとおりに、不器用に揺らす。赤ん坊はいっそう激しく泣く。見習い小僧は面白がって笑う。
やがて年寄りは、きつく縛られつづけて脹れあがった赤ん坊の両足を眺める。

コリントスの牛飼い なんて脹れた足をしているんだ、おまえは…… どうしてこんなにきつく縛ったり……

そして縄を解くと、小さな足を撫でてはキッスして、何とか痛みを和らげようとする。

コリントスの牛飼い 可哀相な〈脹れ足〉……泣くな、良い子だ、泣くでない……

彼らは荒れ野の薔薇色の奥にある緑の谷のほうにいまでは下りかけている、とそのとき、にわかに人が現れて、彼らの足を止める。岩陰から異様におどけた横目で、ぬっと現れでたのはテーバイの下僕だ。
二人は足取りを緩めて、問いたげに心配そうに彼を見つめる。
テーバイの下僕のほうも、ひっそりと謎めいた眼差しを彼らに投げ返す。が、口を開かない。
そんな様子を見て、問う気よりは好奇心を覚えて、彼を眺めながら二人はほぼ立ち尽くしている。
男は相変らず彼らを眺めながら黙っているが、いまはその顔に満足の色が不可解にも浮かんでいる。
どうしたものかと惑ってコリントスの牛飼いは、男は赤子が欲しいのだろうと考えて、おずおずとその子を差し出そうとする。
テーバイの下僕は、するとうっすらと笑みを浮かべて、目配せさえしかねない…… こちらもつられて、つい共犯の笑みを漏らす。そしてもっとはっきりと赤子を手渡す仕草を見せつける。
しかし相手は、いまははっきりと目に犬ころみたいな幸せの輝きを浮かべて、くるりと背を向けると、逃げ出して、岩から岩へ跳び移り、やがて底知れぬ静けさの中に、姿を消してゆく。


9 コリントス 野外。昼。

「小さな町」はその崩れかけた城壁のなかで、埃の舞う赤い土気色のなかで赤らんでゆく。
崩れかけた赤い城壁の向こうに、崩れかけて赤く、家並が現れ出る。そして職人たちの仕上げた狭間胸壁のある、蛮族風に洗練された小さなずんぐりした塔がいくつか見えてくる……
町の前面は埃の広がりばかりで、遠くに、川の辺の稠密で軽やかな緑が見える。
四方八方から奔流みたいに、人びとや家畜の群れが流れ込んでくる。
町の前面で市場が開かれている。狭い城門の下の中央には、粗野だが同時に蛮族風に洗練された鞣革や黄金の装飾の垂れさがる天蓋が出張っている。
天蓋の下には、群衆たちのパドローネみたいに〈王〉がいる。
彼のまわりには、学者や管理人などの小さな宮廷がある。その日は決算の日で、牧人たちが来ては差し出し受け取っている。
雑踏のなか、砂塵のなかに、見よ、コリントスの牛飼いが見習いを従えてやって来る。
彼は両腕のなかに、そうしたことをしつけていない男の不器用さで、オイディプース、いたいけな〈脹れ足〉を抱えている。
赤ん坊は当然泣いている。だのに、羊や牛の啼き声や人びとの喚き声や、農民たちの大きな行事の際にはいつも欠かしたことのないオーケストラの遠い音色が、その泣き声を包み込んでしまう。
黙って、その荷包みを手に、牧人はおのれの順番を待って、群れたちの長たる〈王〉の前に進み出て、おずおずと──石女の妻をもつ〈王〉には素敵な驚きとなるのか、それとも煩わすだけなのか、不確かで──赤ん坊を差し出す。
ポリュボス王はわけが分からずに彼を見つめるが、秘められた不可解な希望が漲ってくる。
感動のあまり口も利けずに、牛飼いが王を見つめる。
〈王〉は牛飼いを見つめる。
牛飼いが〈王〉を見つめる。
とうとう期待漲る長い沈黙の末に〈王〉が不安そうに口を切る。

ポリュボス王 何をもってきたのだ?
牛飼い ご子息を!……お望みなら……
ポリュボス王 〈幸運の子〉!
牛飼い キタイローン山で、ひとりぽっちだった。あそこで見つけたんで。泣いて、泣いて。拾ってきたのは、思うにあんたが……
ポリュボス王 わしによこせ、おいおまえ、わしによこせ……

そして未開人の喜びに火を吹くような眼差しで、牛飼いの手から赤ん坊を毟り取ると、天高く差し上げる、ヘクトールがアステュアナクスにしたように。すると、オイディプースは、アステュアナクスみたいに、いっそう激しく泣く。

ポリュボス王 〈幸運の子〉!

ポリュボス王は太った多血質の、獰猛で優しい大男だ。百姓の中の百姓なのに、旦那みたいに栄養が行き届いていて、葡萄酒と肉のせいで赭ら顔だ。夜盗みたいな大髭を蓄えて、ガゼルみたいな目をしている。
赤ん坊を高く差し上げたまま、喜びのあまり踊りだす。大股に辺りを飛び跳ねながら、一種のタランテッラを踊る。
それから荒々しく渋面を作って一団の小僧たちを睨みつける、みな母親や父親たちに混じって恭しくその場の脇に控えていた子らだ。そして大声で言う。

ポリュボス王 おい、おまえたち、仔山羊みたいに泣いているこのちびが見えるか? よろしい、このちびはな、〈幸運の子〉はいつの日かおまえたちの〈王〉になるんだぞ!

子供たちは唖然として眺めているが、やや敬意には欠けている。

ポリュボス王 跪いて、コリントスの町の後継ぎの王子に、敬意をこめて挨拶しろ!

彼らの親たち──はや卑屈な、彼ら、屈強な父親や慎ましい母親たち──に押されて、子供たちは跪いてお辞儀する。その間も〈王〉はその喜びの舞踏を続けながら幼子を玉のように振り動かす。
しかし幼子は、無礼にも、何か後継ぎの王子にはまったく相応しからぬことをする。〈王〉は気にも止めずに、濡れた袖と衣装を拭うが、まわりの子供たちは思わず笑ってしまう。再び威厳を取り繕うと、高官たちに訊く。

ポリュボス王 〈妃〉はどこだ?
高官 侍女たちと、川に出かけて、衣裳の洗濯を監督しています……
ポリュボス王 わしの馬を!

すぐに馬が引かれてくる。彼はひらりと跨がると、赤ん坊を胸にしっかりと抱えて、悪漢みたいに出立した。
市場の砂塵のなかで、町の赤い城壁に沿って、人びとは彼の狂った騎行に四散してはお辞儀する。


10 コリントス近くの川 野外。昼。

川は町のすぐ近くを流れている。
棕櫚の林と緑の野性の美しい草地の間で、数人の娘たちが衣裳を洗濯していて、他の娘たちは、アキレウスの楯に描かれた情景そのままに、色とりどりの衣裳を草原に広げている。
〈王〉は町のほうからやって来て、あの下のほうに、空をバックに小さな赤い染みとなって現われる。
濛々とした砂塵の中に馬を止めたから、侍女たちに囲まれて〈妃〉は唖然として彼を眺める。
彼女は魅力的な胸の、美しく強い女だ。とはいえ夫である〈王〉の狂ったような生命力までは身に備わっていない。何事かが彼女を悲しませ、その代わりに彼女を迷信家だが感じのよい農婦たちみたいに慎ましく敬虔な女にしている。
茫然と〈王〉を見つめている。

ポリュボス王 〈妃〉よ、なぜそんなにわしを見つめる? なぜおまえは悲しげに真顔なのか、そしておまえの瞳の中に不安と疑いが読み取れるのはなぜか? 〈妃〉よ、笑え、いっそ、笑って、おまえの神々に祈るがよい。今日われらは息子を見つけたのだ! われらにこの子を送られたのはまさに神々ぞ!

無言で、息せき切って〈妃〉は〈王〉の傍らに駆け寄る。そして彼の手から毟り取るかのように幼子を奪う。

 こちらに頂戴! なんて抱き方をするの! この可哀相な子を、死なせるつもり! 何を手に抱えてるとお思い、じゃが芋ひと袋だとでも?

〈王〉は妻の言い分がもっともだと悟る。ほかにどうしようもないので、そこにいて少し後悔して恥じている。
その間も〈妃〉は、母親の優しさをこめて、赤ちゃんを胸にそっと抱き締めて、揺り動かす。
 おおよしよし、おまえに何をしたの、邪な男どもめが、家畜を蹴飛ばし、手には武器を握りしめて、神々は男どもを呪っているのに、ひとかけらの優しさも、上品さのかけらもないのだから……

赤ん坊は初めて、長い長い苦しみの末に、ようやくおのれの場所を得たのを感じ、安らぐ。泣くのを止めて、まだ小さな顔じゅうを涙でくしゃくしゃにしたまま、女を見上げる。甘く、優しく、守ってくれる母親の顔だ。娘たちも駆け寄って、興味津々、笑いさざめく。

娘たち なんて美しいの!
眸はまるで二つのお星さまのよう!
それになんて美しい巻き毛だこと!

ポリュボス王は馬から降りて、赤ん坊を両腕に抱いている〈妃〉に近寄る。赤ん坊のうえに屈み込んで、顔の前で手や指を揺り動かしながら滑稽な仕草をやりだす。

ポリュボス王 ピーチ、ピチ、ピチ、ピチ、ピチ……

赤ん坊は面白がって彼を見つめる。成功に俄然気を良くして、ポリュボス王はいっそう可笑しげなひとくさりを披露する。このうえなくこっけいなしかめっ面をしてみせては、鼻に皺を寄せ、耳を動かし、髭を上下させ……
赤ん坊は、そんな彼を見て、同じくらい可笑しげに笑いだす。すると母親も笑って、侍女もみな笑う。

妃メロペー あたしの〈脹れ足〉ちゃん、ちっちゃなオイディプース、息子よ、息子よ……

赤ん坊が笑う、笑う。
        

パゾリーニによるオイディプース王(11~25)

       11 コリントス付近の競技場 野外。昼。

 一本の投槍が宙をどこまでも飛んで、やがて赤土に突き刺さる。と、また一本、投槍が飛んで、ほんの少し先に突き刺さる。それから三本目が飛んで、震えながら地面に突き刺さる。それからまた一本、また一本。最後の槍はどれよりも遠くまで届く。
 その槍を投げたのは、二十歳くらいの若者で、高い頬骨に、悲壮で荒々しく、幼さと老いの混じる野性的な顔をしている。成人したオイディプースだ。
 勝ち誇って、未開人の輝かしい笑顔で彼が笑う。
 おのれの力に引き寄せられるかのように、勝利をえた投槍めがけて走りより、地面から引き抜くと、踊るように振りかざす。
 後に残された仲間たちは、ゆっくりと投槍のほうにやって来る。敗北に折り合おうとするかのように。
 練習試合だから、辺りに観衆はいない。いるのは汚れて好奇心だらけの腕白小僧が数人と、驢馬を曳いて通りかかる牧人か農夫くらいのものだ。あちらに、木立の蔭に、何人か少女たちがいて、眺めては笑いさざめいて無関心を装っている。

若者 こんどは円盤で試してみよう……

 オイディプースは彼の言うことをろくに聞いていない。狂った生命力に引きずられて、運動用具の積み重なった場所に駆けより、円盤を掴みながら、しかし遊ぶ子供がするように叫ぶ。

オイディプース これで最後だ!……

 四、五人で試合中の若者たちが、一人ずつ円盤を投げる。一人が投げて、円盤が落ちると、みな一緒に駆けより、細い棒を突き立てて飛距離の目印にする。
 こうした一部始終を少女たちは興味深げに見守っているが、確かにスポーツそのものに律儀に見入っているわけではない……
 いまはオイディプースのライバルの(相変わらず無関心を装っている少女たちのなかでいちばん美しい少女が彼らと交わす眼差しにおいても、たぶん、ライバルの)若者の番だ。円盤はとても遠くに、誰よりも遠くに落ちた。
 若者たちが目印の小枝を刺しに駆けだしているあいだ、あの少女は不安そうに不機嫌に眺めている。きっとオイディプースに勝ってほしいのだ……
 さていよいよオイディプースの番だ。彼はくるりと優雅に力強くひと回転する。見よ、円盤は飛び立って、飛んで飛んで、どこまでも宙を飛ぶ。そして落ちる。鈍い音とともに舞い上がる埃を見ればいちばん遠い小枝、最も手強いライバルの目印近くに落ちたことが分かる。けれども、その少し先か、それとも少し手前に落ちたのだろうか?
 オイディプースが稲妻みたいに飛び出して、真っ先にその場所に着いて、見つめる。円盤は敵の小枝よりもほんの少し──毛筋ほども──手前に落ちている。素早く盗人みたいに、爪先で、円盤を小枝の先にそっと押しやる。そして叫びながら小躍りして、おのれの足の不埒な動作を隠すかのように、

オイディプース 勝った!勝った!

 そして、みなを待たずに、相変らず稲妻みたいに速く、少女たちの群れめがけて走りながら、叫ぶ。

オイディプース さあ、冠を被せてくれ、樫の葉枝の冠を。勝ったのはぼくだ!

 最も美しい少女はいそいそと、まるでオリンピック競技のように、勝利者の樫の冠をオイディプースの頭に被せる……
 オイディプースは、愛のこもった微笑みを浮かべながら、彼女の前に頭を垂れて、彼女を見つめる。
 しかしそのとき、ほかのみなが荒れ狂って駆けつける。なかでも怒り狂っているのはライバルの若者だ。

若者 勝ったのはぼくだ! 勝ったのはぼくだ! オイディプースは足で円盤を先へ押しやったんだ! 埃の上にその痕が残ってるぞ!

 そしてオイディプースに跳びかかって、頭から冠を毟り取ろうとする。だが、オイディプースは彼の言葉にとうに激昂していた。彼に襲いかかると、殴りはじめる。拳闘では彼が最も強い。最も乱暴で残忍だからだ。たちまち彼を地面に打ち倒してしまう、口からは血が流れている。
 若者は埃の上を転がって、蛇みたいに彼のほうを振り返る。

若者 〈幸運の子〉め!〈捨て子〉め! おまえの父と母のにせの〈子〉め!

 オイディプースは聾なのか? それとももう言葉の意味が分らないのだろうか? 彼は勝ち誇って面白がって、何ひとつ聞かなかったかのように笑いつづける。


       12 コリントスの王宮 屋内。昼。

 オイディプースは果てしない悲しみの徴された顔をしている。
 両親と食卓につき、辺りには皿を掲げた召使たちが行き来して、楽師がいま風変りな蝉みたいに鳴る楽器で、つねに変わらぬ蛮族風のお道化た執拗な曲を奏でている。
 吟唱詩人の民衆音楽。
 オイディプースは陰気に黙りこんでいる。
 ポリュボス王と王妃メロペーが心配そうに、やはり無言で、代わる代わる彼の顔を覗きこむ。
 オイディプースは気分の悪い獣みたいに、おのれのうちに閉じ籠もって、厭な目つきで、食べ物に触れようともしない。そして溜息をつく。

妃メロペー 息子よ、どうして何も食べないのだい?気分が悪いの?なぜ話さないの?何かあたしたちに腹を立てているの?

 オイディプースは、甘やかされすぎて我が儘な息子みたいに、かっとなってひどい口を利く。

オイディプース もう、うんざりだ!もう百遍も同じことを訊く! ぼくは元気だ、何でもない、たくさんだ!

 ポリュボス王は手近の皿を掴んで、蛮族風の荒々しさで楽師に投げつける。

ポリュボス王 そのくだらない曲を止めろ、阿呆め、みな気狂いにする気か!

 楽師は皿を避けると、すぐにあの特異な楽器を弾くのを止める。
 ほかの楽士たちは目を見合せて、ひどく陽気な舞踏歌を熱心に演奏しだす。
 しばらくのあいだオイディプースと両親は黙って食事をするが、やがてオイディプースが口を開いて、話す。

オイディプース 母さん、今朝の夜中にぼくは悪い夢を見た……思い出せないけど……悪い夢だったことだけは確かだ……泣きながら震え上がって目が覚めたんだ、子供の頃みたいに暗がりが怖くて……神々がぼくに何事かを告げようとしたのに、それが何か、覚えてないとしたら? 思い出せないとしたら? 夜明けまで目を覚ましたまま、無言と闇への恐怖ゆえに背筋が戦くばかりで……お母さん、お父さん、ぼくはデルポイに行って神託を伺ってきたい……この夢の意味を訊いてみたい……思い出せないことを……告げてもらいに……
妃メロペー 息子よ、いいとも!誰でも一生に一度はデルポイの神託所に巡礼に行くというのに、おまえはまだ行ってないんだから! いまはおまえがあそこへ行くべきときだ。あそこへお参りに行くのは素敵だよ、あたしはまだ娘時分に、おまえの父さんと行ったっけ…… 王よ、そうよね? 覚えてらして? あたしたちの祭よりずっと大きな素晴らしいお祭で……
ポリュボス王 あたりまえだ!あのデルポイにはギリシアじゅうから人びとがやって来て、神託所の辺りはいつだってお祭だ! おまえには見たこともないような極上の護衛隊をつけてやろう、馬に、召使に、進物に。ほかのどんな王子もおまえほどには見栄えがしないことだろう!
オイディプース いいえ、父さん、ぼくはひとりで行きたい。
ポリュボス王 ひとりで? なぜひとりで? おまえは〈王〉の子だぞ、ひとりでなんで……
オイディプース 神の前で華美や護衛隊がぼくに何の役に立つ? ぼくが出頭したいのは神の前にであって、それを拝みにゆく人びとの前にではない……
ポリュボス王 しかしな……
妃メロペー あたしたちの息子のいうことが正しい! 神々が欲しているのは富の見せびらかしではなくて、心の真摯さだわ。で、息子よ、いつお発ちだい?
オイディプース 明日の朝、夜明けに。
妃メロペー すぐに? そんなに早く?
オイディプース どうして待たねばならないのさ?あの夢がまた戻ってきて苦しめられるのは御免だね。あの夢の中身をぼくは知りたい。


       13 コリントス付近の野辺 野外。夜明け。

 囲い場のなかで眠りこけている羊たち。
 眠っている一頭の犬。
 傍らに楽器を置いて、眠っている一人の羊飼い。
 一羽のナイチンゲールが囀っている、一本の樹。
 ナイチンゲールの歌声。
 ナイチンゲールの歌声はゆっくりと消えてゆく。するとほら、空の最初の光をバックに、人けのない野辺を飛びくる、雲雀の最初のトリルが聞こえる。

 雲雀のトリル。


       14 コリントスの王宮(中庭)屋内。夜明け。

 夜が白む神聖なくらいの静けさのなかで、中断された眠りゆえに青ざめて〈王〉と〈王妃〉とオイディプースが別れの挨拶を交わす。
 ささやかで厳粛な家族的な出来事だ。
 母親は、ひとりの侍女に助けられながら、息子の振り分けの合切袋のなかに最後の品を詰めこむ。心配そうだ、なのにしっかりした手つきで。
 そのあいだに父親は息子に合図して少し離れた所について来させる配慮さえ見せる。
 そして太鼓腹の下の革帯から、金貨でぎっしりの、よく鳴る小袋を捻り出す。
 それを息子に突き出す、と息子はいくらかおずおずとそれを取る。

ポリュボス王 ほら、ちょっとした額だぞ……旅では何が起こるやら知れたものではないからな、神々の思し召しのままに……
オイディプース(子としての謝意の笑みと、若者特有の金に対する優越を見せながら、呟くように言う) 父さん、ありがとう。

 いまは母親のほうを振り返る、と彼女はあそこに重たい合切袋を手に、やっとのことで立っていながら、それでも背を少し屈めるだけで雄々しく耐えている。オイディプースは駆け寄って合切袋の重荷から彼女を解放してやる、そんなものは彼にとっては枯れた小枝ほどにも重くはないが、肩に振り分けに担ぐ。
 そのときだ、母親がわっと泣き出すのは。短い巡礼の旅に発つ息子に告げる別れにしては何とも不釣り合いな泣き方だ。けれども彼女はどうしても堪えきれない。たぶんそれが母親と息子が別れる初めての折りのせいかもしれない。
 父親みたいにオイディプースは彼女を撫でる、そして女のそんな感動をからかうかのように、微笑みさえ浮かべている。しかし父親までが別れの悲しみに感染していまでは目をきらきら光らせている。そうして辺りには夜明けのこんなにも悲しい光が溢れて、庭の奥にはあんなにも陰気に固まって召使たちが控えている……
 オイディプースの眸からも微笑みが抜け落ちて、まるで驚愕の影みたいに痛ましい予感が瞳を覆う……
 勇を鼓して、彼は母親を愛撫する。

オイディプース 母さん、泣かないで。二、三日もすれば戻るから……二、三日もすれば……母さん、さよなら……父さん、さよなら……

 そして背を向けると、走るようにして遠ざかってゆく。
 お告げの神々によって吹き込まれた、恐ろしい悲嘆に息を詰まらせて、母親はろくに話す力もなく、辛うじて訣れの言葉を吃りながら言う。

妃メロペー さようなら、息子よ……恙ない旅を!さようならあたしの〈脹れ足〉ちゃん!


       15 コリントス 野外。夜明け。

 オイディプースは王宮を出て、崩れた家並の窓なしの赤壁のあいだを、腸みたいに狭くて細長い、町の急坂を下ってゆく。
 夜明けのあの狭い通りには人っ子ひとりいない。たぶん一匹の野良犬と、烏の鳴き声ばかり。
 オイディプースは、重苦しい悲しみに胸を締めつけられながら、なんとか勇気を奮い起そうとする。
 歩幅を伸ばして、軽く口笛を吹きだす。
 そうして赤い埃の町の曲がりくねった径を遠ざかってゆく。


       16 コリントス付近の野辺 野外。朝。

 いまは早くも無人の野辺を歩みゆく。
 彼の背後に町は遠く離れて、高い城壁に閉ざされた、ひと固まりの家並となった。町はその日々の暮しのなかに失われて、遠く離れた不可解な小ささのなかで、異国の町みたいになった。
 そしてオイディプースは大股に、無言のまま進みゆく。


       17 デルポイの神託所 屋内。昼。

 アポローンの神託所のなかは、ミケッティの描く巡礼図の教会のなかといくらか似ている。盲や藪睨み、跛、幼子を抱く母親、中風病み、家族全員のいる民衆的な狂信的な狂乱、そして真ん中に、下男たちに囲まれた高慢な権力者が数人いる。
 神殿の内部には人びとの声と、祈りと、嘆きと、歌声が反響している。
 地面を這いずって、屋根無し託宣所へと近寄る人びともいる。
 この礼拝所の前には、大勢の尊大な司祭たちのあいだに、託宣を待つ人びとの「列」がある。
 この人びとのあいだに、顔を曇らせて、オイディプースがいる。
 次第次第に列が進んで、ついにオイディプースの番がくる。彼は託宣所へと請じ入れられる、そこに〈巫女〉がいる。
 この女は放心して、うわの空で、狂信的で、でっぷり太った女だ。屍みたいな青ざめた顔をして、隈の出来た目は憎しみとヒステリーに漲っている。
 オイディプースがおずおずと、野性的に女の前に進み出るやいなや、そのヒステリックな憎しみの顔つきがさらに際立つ。
 彼女は無感覚に機械的に儀式の手順を踏むと、やがて、どんな類の関与もなしに、官僚的なくらいに、一種の聾の怒りをこめて、神の恐ろしい裁きを、間違いなく罪のある、神に疎まれゆえに彼女に嫌われた、あの若者に告げる。

巫女 視よ!おまえの未来はここに徴されてある、おまえはおのれの父親を殺し、おのれの母親と目合うであろう。こう神は告げられている、ゆえにこのことは避けようもなく成就するであろう。

 オイディプースはわれとわが耳を疑る。かくも驚愕に満ちた単純さをまえに、希望なしに彼を罰するあの短い宣告に、身の毛もよだつ苦悶に締め上げられて彼は身動ぎも出来ない。戦慄のあまり、彼はその場に立ち尽くす。ついに誰かが彼の肩を押して、慌しく出口のほうへと押しやり、次の者のために場所を空ける。


      18 デルポイの神託所 野外。昼。

 深みのある、清浄無垢な、栄えある太陽が神殿前のお祭に光線を浴びせている。群衆の力強いざわめきと一緒に、何もかもから人生の唯一の可能な形とも見紛う人間の喜びが発散している。
 小屋掛け、巡礼たちの列、子供たちの遊びや駆けっこや輪舞、乞食たちの嘆声、あちらこちらに鳴り響く民衆音楽の喧噪、みな世界のほんとうの現実の徴と映るのに、それがいまはオイディプースにはまるで見えてない。
  民衆の楽団による調べ。
 オイディプースは夢のなかでのように、あの群衆の真っ直中を通ってゆく。彼はもう何を見てもそれと分からぬように見える。口を開けたまま辺りを見回し、目には恐怖を滲ませている。追跡されている獣、哀れみを請う乞食みたいに見える。
 雑踏に揉まれながら、行き当りばったりに歩いてゆく。そして彼からは滑り落ちてしまうあの現実の不可解で幸せな象徴を、たまたま彼の目に触れるあらゆる物事を、一つ一つ眺めてゆく。
 腕に抱き締めたり、手を繋いだりして、幼い子供たちを連れている母親や父親たちを彼は見る。担架で運ばれてゆく、黄ばんだ顔に燃え上がる目の病人を、彼は見る。おのれと同じ年頃の豊かな青年たちが傍らの娘たちと幸せそうにしているのを彼は見る。オイディプースにとっては失われてしまった日々の暮らしの真っ直中で、まだ幼年時代に埋もれたままの幼い少年たちが
勝手気ままに、忘れっぽく、遊び戯れているのを彼は見る。
 悪賢く、純真に遊んでいる、つまりは幸せな少年たち。
 オイディプースは脅えながら、口を開けたまま彼らを見つめる。
 遊んでいる少年たち。
 彼らを見つめるオイディプース。
 遊んでいる少年たち。
 彼らを見つめるオイディプース。
 オイディプースの半ば開けた口からは嘆きとも喘ぎともつかぬ声が漏れ出る、しかも機械的に漏れ出たその声に彼は気づいてもいないようだ。彼はおのれを占める苦しみをまだ完全には把握できずにいて、そのためにロボットみたいに苦しみに支配されている。
 呻きながら、彼が遠ざかりゆく。


       19 神託所の付近(コリントス街道)野外。昼。

 背後に垣間見える神託所から遠く離れて、ロボットみたいに彼はいまは歩いてゆく。
 反対側から来て一列になった巡礼者たちが彼と擦れ違う。しかし彼はこんどは盲みたいだ。脇に寄らない。そこで一行は、彼を避けながら、怪物か、それとも薄幸な人を見るかのように、彼を見る。
 彼は再びひとりぽっちになる。
 街道のマイル標石のうえに「コリントス」の文字が刻まれている。
 家に、彼の両親の許に帰る道がそれだ。
 オイディプースはその文字を莫迦になったみたいにじっと見る。
 風に運ばれて神託所からは、無窮の太古の予知の詰まった陽気な民衆音楽がいっそう強く聞えてくる。
 オイディプースはすとんとマイル標石のうえに腰を降ろし、わっと泣き出して子供みたいに泣きじゃくる。
 顔を覆って、彼は長いあいだ泣く。ほかの人びとが通りかかって、異質の者、人間の暮しの規範から外れた者を見るかのように、哀れみと恐れと敵意をこめて彼を眺めてゆく。
 オイディプースは泣く。
  溶暗。
 いまはもう彼は泣いていない。涙はこけた頬に硝子の粒みたいに残っている。おのれの前方にじっと目を凝らす。それから溜息をつく。
 彼はある決心をした。そして機械的にそれを実行する。立ち上がる。コリントスとは反対の方角へ遠ざかってゆく。
 後ろを振り返って、彼の祖国の名前の刻まれたあの石を眺める。
 あの石が遠く小さくなって、ついには見えなくなるまで。


       20 神託所の付近(ずっと遠く)野外。昼。
 
 いまはオイディプースはずっと率直に図々しく歩みゆく。眸は乾いている。もう絶望しきった目ではないがすさんだ目をしている。そう、すさんで、険しいくらいの目つきだ。おのれをどこへ運ぶとも知れぬ道を彼は進みゆく、そうしてこの新たな宿命に、彼は敢然と立ち向かう気でいる、なぜなら不正義はつねに人の心を頑にするものだから。
 見よ、彼はいま分かれ路のまえに立つ。
 そこから発する二本の街道が果てしない地平線に向けて伸びている。地中海の土地のやや明るい青色、夏の猛威に黄ばんだ山々、底の知れない乾燥、蝉の歌声ばかり、その奥の奥には神々の訪れた世界の見知らぬ町々が聳えている。
 オイディプースはその分れ路をまえに、決めかねて立ち止まる。とはいえその躊躇いも人を食った図々しさに近い。右を見、左を見る。彼の宿命の道はどちらの路か?一方のマイル標石には「テーバイ」という文字が、他方の石には別の町の名前が刻まれている。
 固い意志を秘めた仕草で、荒々しいくらいに、彼はその革袋──父親から贈られたあの袋──を開けると、金貨を一枚取り出して、宙に放りあげる。金貨は唖になって埃の上に落ちる。
 オイディプースはそれを拾い上げて、眺める。そして決然と、テーバイへと通じる街道をゆく。
 彼は静けさのなかを、固い意志を秘めて、挑むかのように進みゆく。


       21 テーバイ街道沿いの居酒屋 野外。昼。

 山盛りのいんげん豆の皿。まわりにはパン。そしてそら豆。それにいちじくの小さな籠。
  賑やかに浮かれた民衆舞踏曲。
 夏に蝕まれた大きなぶどう棚の下で、食卓についたオイディプースが食事をとっている。
 二十歳の貪り食らう喜びの深い食欲をもって食べている。おのれ自身との強度な対話のなかで、未熟で健康な獣の喜びをまさに噛みしめながら。
 しかし満たされた空腹ゆえに濁った目をときおり辺りに向けて、短く貪欲な眼差しを投げつける。
 居酒屋には祭の気配が濃くて、たぶん結婚式なのだろう。
 古風な農民楽器を手にしたオーケストラが全力を尽くして演奏している。粗野で気の狂った陽気な曲だ。
 何組もの若者と娘たちが、大きなぶどう棚の蔭で、みな汗をかきながら踊っている。そうした舞踏のひとつで男がその古の千年間のなかで踊る、その舞踏は千年間等しく、夏ごとに土用の休みの巡りくるごとに、蝉たちが狂ったように鳴きしきるなかで踊られていたに違いない。
 小猿みたいに滑稽な酩酊した年寄りたちも踊っている。
 そしてオイディプースはそのいんげん豆を食べている。
 オイディプースと同じ年頃の若者たちのひと群れが、退屈しきった風情で階段の段々に腰を降ろしている。きっと村の不良仲間だろう。確かにオイディプースはその同世代の若者たちに生々しい反感を覚えて、うわの空なのに挑むような眼差しを投げる。そしてなおもそのいんげん豆を食べつづける。
 いまは最も美しいふたり、若者と乙女が、たぶん花婿花嫁が踊っている。
 ほかのみなは、ぐるりと、居酒屋の白い壁際で、輪になっている。
 ひとりの母親がおっぱいにむしゃぶりつく赤ん坊に乳を飲ませている。
 オイディプースはいやな目つきでその光景を眺める。けれど怒って目を伏せるなり、がつがつと食べつづける。
 しまいにあの大騒ぎの最中に、店の主人を呼んで、金貨でいっぱいの革袋を取り出し、勘定を済ませる。
 陰気にひとりきり、オイディプースは居酒屋を出て、お祭をその背後に残してゆく。


       22 テーバイに向かう街道 野外。昼。

 テーバイへと通じる長い街道をオイディプースは歩いてゆく。ひとりっきりだが、悲しくはない。帰ることなく、おのれを待つ世界のなかで、つねに先へと進む、そんな男の宿命に甘んじていた。
 肩に振り分けた合切袋をそびやかせて歩きながら、居酒屋で聞いたばかりの曲のモチーフを口笛で吹く。
 こうして口笛を吹きながら、順調な足取りで歩いて、おのれの思考に浸りきったまま進みゆく。


       23 テーバイに向かう街道(椰子林)野外。夕暮れ。

 その夏の熱気のなかでどこまでも代わり映えのしない薔薇色の荒れ野のなかの一本道がいまは椰子林の緑なす川沿いをゆく。
 日没の時刻だ。
 蝉たちはもう鳴かずに、蟋蟀が啼いている。
 オイディプースは街道を外れて、椰子林のなかの疎らな草地に場所を探す。
 身体を伸ばすと、眠る。


       24 椰子林 野外。夕暮れ。

 いまは夜明けだ。太陽はとうに充分高い。
 太陽の光線がオイディプースの顔を傷つける、二十歳の若者の怠惰さで、深い眠りからゆっくりと抜け出す。
 起き上がり、辺りを見回す。
 深い驚きの表情が、次第に打ちひしがれた顔つきへと変わってゆく。
 彼の合切袋が見当たらない。
 革帯に吊るした、金貨の入った革袋も、見当たらない。何を考え、何をすべきかも分からずに、がっくりと膝立ちになる。夜明けの白々とした光のなかで何もかもが不動で静まり返っている。盗みは奇蹟みたいに不可思議だ。まるで奇蹟が免れがたいのと同じように。
 オイディプースは長いあいだ腰を落とし、跪いている。
 それから固い意志を秘め、また起き上がり、肩を揺すって、おのれに笑いかける。
 街道に舞い戻り、先へと進む。まるで祭に行くのか、それとも、ともあれ、何か目的があるかのようにすたすた歩いてゆく。
 合切袋がないから、彼は身軽だ。取られた袋のことなど笑い飛ばしている。
 こんなにも裸で世界を、彼は進みゆく。いまでは彼にあるのはおのれ自身、その心臓と、往くという固い意志だけである。
 彼の前の道はとほうもなく遠くの地平線あたりの地域に消えてゆく。
 その道に終わりはなく、無という形をもつすべてへと通じる一本の街道だ。
  溶暗
 いまはオイディプースはその街道そのもののずっと先をゆく。
  ある楽器の調べか、それとも遠い歌声か。
 あの全くの静けさのなかに鳴り渡るその不思議な音楽は、その時刻に奇蹟の気配を添えている。それはまたしても古い時代の民衆音楽だが、黒人たちの音楽にも似て、われわれ現代人のとは別のルールに従う音楽だ。地平線の無限にそれは神秘的に入り込む。快楽と同時に恐怖が襲いかかってくる。荒れ野のあの長い道のりをより小さくすると同時に途方もなく大きくし、より心安くすると同時にいっそう非人間的にする。
 あの歌声に惹き寄せられるかのように、長いあいだオイディプースは歩みゆく。
 とうとう街道が川沿いにゆく地点に着く。
 葦原のなかに小舟が垣間見える。こちらに背中を向けて歌いながら弾いているのは、年寄りだ。舳先には、別の種族の神秘的な美しさの少年が、裸で、暗く燃えたつ眸を煌めかせながら、椰子林の緑の岸辺を背に、オイディプースのほうに顔を向けている。


       25 テーバイに向かう街道(村) 野外。昼。

 いまはオイディプースはとある村に臨むところまで着く。いまでは午後も遅く、最初の農夫たちや牧人が村に帰ってくる時分だ。
 頭を切り取って仕上げた塔をいくつか交えながら、村は埃の広がりの上に、赤く無疵に、遠く聳えている。
 相変らず川沿いのここ、オイディプースのいるところには、一種の奉納礼拝堂がある。
 しかしあたりにいる人びとにはそこで祈ろうとする様子も見えない。まるで信者どころではない。
 オイディプースの年頃の若い男たちも何人かいて、不精に柱頭に凭れて、怠惰で挑発的な風情だ。
 少し離れて、ずっと若い小柄な少年たちが二、三人いるが、こちらも早くも彼らの長兄たちの道を歩みだしているようだ。埃まみれの前髪が野性的で悪党らしい風情を添えている。
 年寄り連中もいる。評判の良くない村々の鋳掛屋稼業の年寄りたちか、それとも風まかせにあの村この村と渡り歩いて稼ぐ年寄りか、とりわけ大酒飲みで神を屁とも思わぬ修道士たちか。一頭の驢馬のまわりに集まって、仲間うちで喋っている。
 ひとりの若い男が川辺へと通じる枯れ柴の小森から、疲れているのに威張った様子で進みくる。
 腰を降ろしていた若造たちのひとりがすぐにぱっと立ち上がり、こちらにやって来る男と擦れ違って、小森の小径に姿を消す。
  溶暗。
 しばらく経った。若造たちはみな行ってしまった。
 残っているのは少年たちと年寄りだけだ。いまはここに年配の男があの小径から登ってきて、すぐにオイディプースが少年たちの皮肉な共感に見送られながら小径へと入り込む。
 二十メートルも往くと、見よ、椰子林のなかに狭い空き地がある。
 空き地の真ん中に年配の太った裸の女がいて、大きな乳房を剥き出している。
 オイディプースが女を見つめる。女が彼を見つめる。
 長いあいだふたりは互いに観察しあう。
 オイディプースは数歩女に近寄りながら、不機嫌にじっと女をみる、まるで一人前の男が、内心、何とも知れぬ不思議な感情にうち負かされてするかのように。やがていきなりくるりと背を向けると、走るように来た道を引き返す、その背中をあの女の笑い声が追う。
  女の笑い声。
 オイディプースはまた街道に出る。
 少年たちも興味を惹かれて彼を眺める。けれどもいまは彼らの目には共感よりも皮肉の色が濃く浮かんでいる。それは嘲りに近い皮肉だ。
 オイディプースは振り返りもせずに、その長い道のりをひとり、遠ざかってゆく。

パゾリーニによるオイディプース王(26から33)

       26 テーバイに向かう街道(隘路)野外。昼。

 街道はひどく狭い、一方は岩壁、他方は川へと落ちこむ絶壁だ。
 街道の幅いっぱいに走る大きな馬車のドアから、年配だがなお強くて乱暴な男の頭が突き出ている。オイディプースの父親だ。
 五人の兵士と馭者を務める下男が彼を護送してゆく。
 下男は赤子のオイディプースをキタイローン山で死ぬように運んだあの張本人だ。
 オイディプースは小径みたいに狭い街道の真ん中を歩いてくる。
 馬車が進む。オイディプースが進む。
 オイディプースの父親とオイディプースは、相手がどうするか見ようと待って長いあいだ見つめあう。不条理な、底知れぬ憎しみがたちまち彼らの顔だちを歪めてゆく。そこには何か非人間的でヒステリックなものがある。
 それはおのれの尊厳が問われるのではないかと、不条理の理由ゆえに、男たちが恐れるときに、互いに彼らを野性に押しやりあう何かだ。譲らぬことが匿された復讐の、知られざる古の感情の捌け口となるときに。
 疵つけられる虞れのあるおのれの尊厳を最後の血の一滴まで守り抜く、道を一歩も譲らぬ固い意志を秘めてオイディプースは進みゆく。それともたぶん、相手の優しいひと言、譲りたまえという礼儀を弁えた誘いだけを待っていたのかもしれない。
 しかし相手は猛り狂っている。
 だからそんなことは起らない。起らない、なぜならあの男は父親だから。

父親 乞食め、道を空けろ!

 オイディプースは答えない。小径の真ん中に足を踏ん張って仁王立ちし、流浪の若者が遍歴の騎士たちがするように下から上に睨めつける。
 その眼差しは挑戦としては中立だし、挑発の色もなおも彼がおのれに許した忍耐によって消されている。街道の真ん中で、生気のない瞳の、大股の辛抱強い待機。

父親(喚きながら)乞食め、道を空けろ!

 ぱっと気が狂ったみたいにオイディプースは屈むと、大きな石を掴んでそれを父親めがけて投げつける。石は父親の額を撃ち、血が出て血は両目に流れこむ。
 たちまち前衛の二人の兵士が剣を抜いたオイディプースに襲いかかる。後衛のほかの二人の兵士は道いっぱいに塞いでいる馬車の前に出るために、ひとりはオーバーハングの絶壁を攀じ登らねばならず、あとひとりは馬車にしがみつきながら、渓谷の縁づたいにゆっくりと前へ出ねばならない。
〈王〉は泣きわめきながら、血を両手で拭う。
 オイディプースは最初のふたりの兵士と闘う。兵士たちは長槍を手にしているが、接近戦では邪魔になるばかりだ。ふたりともまだ髭の生えないオイディプースよりもさらに若い少年だ。ひとりはたちまち手傷を負って、泣きながら倒れこむ。
 もうひとりもしばらくすると、仲間の身体の上に倒れこむ。
 怒りに盲て逆上したオイディプースは、傷を負った兵士の頭を切り裂いてとどめを刺す。
 死んでしまって、ふたりの兵士はいっそう少年らしく見える。
 彼らの無垢はすっかりそこ、埃の上に、血に塗れている。
 ほかのふたりの兵士もやって来たが、同時にではない。馬車にしがみつきながら、川に突き出た狭い絶壁づたいに前に出た兵士がまず来る。
 彼の態勢が整うより早く──拳に握りしめた長槍に邪魔されてもたついて──狭い断崖の縁の上でまだ馬車にしがみついているあいだに──オイディプースは鬼女みたいに襲いかかる。
 兵士は身を守ることが出来ない。オイディプースは何度も彼を打つ。兵士は馬車の車輪の下に倒れこむ。そこへ四人目の兵士が岩壁の高みから不意に降り立つ。
 父親は血塗れになりながら、泣き、喚く。
 オイディプースは四人目の兵士と戦う。そしてまもなく、若くて無垢なこの兵士も埃のなかに倒れこむ。
 するとオイディプースは馬車の上に登って、血を流している父親に襲いかかる。馬車の馭者は恐れ戦いて、飛び下りると、小径づたいに逃げ出す。
 父親は彼も、剣を抜き放つ。しかし馬車のなかでは悪夢のなかの隘路にも似て、動きがとれない。
 オイディプースは彼の上にいる。そして血を滴らせながら突き出ているあの頭を、斧を打ち下ろすみたいに剣を何度も叩きつけて砕く。
 馬たちは馭者なしに狂って、地面を蹴りたて走り出すが、狭い小径が万力みたいに馬車を締め上げ、馬たちは傷ついて倒れる。
 死んだ四人の少年たち、死んだ父親。殺戮の上に午後と荒れ野の静けさがまた下りてくる。
 オイディプースはおのれが夢のなかでのように成したことすべてを眺める。
 下男はあの下のほうを長い小径をずうっと走っていって、川へと下る脇道を見つけ、椰子林のなかの草むらに、追われて狂った獣みたいに逃げ込む。
 草むらは彼を受け入れ、野性の沈黙によって保護されたかのように、彼はそこに姿を消す。
 永遠の夏のあの沈黙全体のなかに、物音ひとつ、ひと吹きの風も、鳥の囀りひとつ聞えない。
 草むらの陰で、泥濘の上にうずくまって、声もなくしゃくりあげて身体を震わせているのは、身じろぎもままならない下男だ。彼は戦きながら肩の上の首を捩って、頬骨の上の盲た狡い目をじっと注いで、おのれの後ろを振り返る。

 
       27 テーバイ付近の野辺 野外。昼。

 大群衆が無言のまま荷車で、馬で、徒歩で進みゆく。
 集団移住か?移民か?
 大いなる静けさのなかに荷車が軋り、埃のなかに足音が漏れ、どこかで赤子が泣く。
 やがてひとつの声が上がって歌いだす。民衆の苦しみを歌う女の声だ。フルートの悲しい調べがあとに続く、その曳きずる歌詞はあの土地、あの時に起きたことと同じように難民たちの苦しみを物語り、あれが亡命の道すがらであることを告げている。
 苦しみの街道に沿って荷車は揺れ、人びとの足音が聞え、何人か赤子の泣き声がする。
 街道は下のほうに、灼けた平野に沿って、岩々と小さな麦畑のあいだを往き、夏の遠い煙のなかに消えてゆく。そこには海か、湖か、それとも何か青くて死んだものがあって、たぶん影の町が在るのかもしれない。
 オイディプースはあの黙りこくって移住してゆく群衆みなとは反対の方向に歩みゆく。
 その不可解な意図ゆえに、そのまえでは忍従するほかはない宿命的な決心ゆえにあの人たちみなが慌てもせずに逃げ出してきたその土地めざして、彼は長いあいだ歩く。
 すると見よ、ついに死の夏の青い大気のなかに群島みたいに、岩々と小さな丘々の人里離れた土地、広い空き地がある。
 そこに群衆が野営している。きっと住民の一部だけが逃げる決心がついたのだ。あとの一部はここ町外れに、疎開者たちのテント暮らしの混乱と惨めさのなかにいる。
 無自覚な悪童たちの群れが辺りをうろついている。何人かの商人が他人の混乱振りを良いことにいくつかテントを張って、食べ物や飲み物を売っている。祭のときや聖堂近くと同じように、乞食たちさえいる。そしてオイディプースの年頃の若い男たちのグループもいて自分たちだけで固まっている、彼らの若々しさが幸運な別の種族を意味するかのように。
 オイディプースはひとりの幼い少年ではもうないが、だからといってまだ彼らみたいな若者でもない、それでもその無邪気さのなかに狡さや確実さも見える、おのれの暮す土地そのものから出てきて、それを眸に、精神に宿している者に向かって言う。

オイディプース おおい、少年よ、何が起きたのか? この辺りでは何が起きたのだ! なぜこの人たちはみなおのれの町から出てゆくのか、あるいはなぜジプシーの族でもあるかのようにここにテント暮らしをしているのか? ああ、おまえも知らないのか?
少年 どうしておいらが知らないのさ?(得意になって)おいらはメッセンジャーだ、ニュースを運ぶのはこのおいらぜ! 知らなければそいつはほんとに素敵だったろうに!
オイディプース で、だから?
少年 おいらと一緒においで、おいでよ……

 少年は確かにたちまち共感か敬意を、あるいはとにかく「何か特別なもの」をよそ者に対して覚えた。あるいはたぶん、小遣い稼ぎがしたかったのかもしれない。さもなければ単に事の次第を知っていることを誇りたかっただけなのか。要するに見るまに彼らは野営地を横切ってとおり越す。人けのない道をしばらくのあいだ歩いてゆく。
 避難民たちの野営地を後にするとたちまち、不自然な大いなる沈黙が野辺を圧する。見捨てられた野辺だ。動物たちの骸骨や、太陽の下で錆ついた農具や、雑草に覆われた小さな井戸がある。眼窩みたいに空いた窓辺の、半ば崩れ落ちた家々。
 そしてここに、そんな土地に、不条理にもフルートの調べが大気中を彷徨いだす。
 オイディプースは彼を見つめる少年の瞳の奥を覗きこむ、知っているのに黙っている。あの調べに導かれるようにして、彼らはなおも歩みゆく。そうして大地を空から分つ土手の裏手に着く、その手前はあの荒れ果てた野辺だ。
 太陽しかない。
 だが、野性の二つの草むらのあいだにしゃがみこんで、ここに一人の男がいる。童顔に齢の徴された、重々しく太った年寄りだ。けれども瞳は、フルートの悲しくしめやかな音色を追ってはいない。
 瞳は動かずに、まるで絵に画いたように宙に止まったままだ。盲だ。
 オイディプースは、動顛して彼を見つめる。
 おのれの宿命によって記された長い道筋をたどる長い旅をとおして、これほど深ぶかと不可解にも彼を茫然とさせたものは、ひとつもなかった。なぜ?
 たぶん、おのれの宿命を成就させたのちに彼を待つもののための、彼の宿命の新たな徴なのかもしれない。彼は少年の目を覗きこむ。少年が彼を見つめ返して、聖なる敬意に溢れ、脅えて囁く。

少年 預言者の、テイレシアースだよ。

 オイディプースが数歩彼に近づくと、テイレシアースはそれを聞きつける。悲しみの調べを中断する。
 ふたりは互いに向きあう。オイディプースは少年の眸で、テイレシアースは盲の瞳で。彼らが互いに言うべきことすべては、長い無言にほかならない。やがてテイレシアースがまたフルートを吹きだす。フルートの調べが高く清らかに鳴り渡る。その苦しみは世界の苦しみである。
 再び奏でられだしたフルートの最初の調べに、オイディプースの目は見る見る涙に溢れる。どうしても堪えきれずに、わっと泣き出す、恐ろしく同時に測り知れぬ慰めとなる泣き声に彼は身体を震わせる。
 跪き、まるで聖なる儀式の調べであるかのようにあの神秘的なメッセージに耳を傾けている。
オイディプースの内なる声 歌っている、だがおのれのことを歌っているのではない。何者かが彼に歌う責務を与えた、彼は盲だ、盲なのに何者かは彼に見る責務を与えた、彼の町のこの数日、数夜を見る…… 彼が歌うのは他人のためにだ、彼が歌うのは他人のことだ、彼が歌うのはぼくのためだ、彼が歌うのはぼくのことだ。彼はぼくのことを知っている、だからぼくに歌いかけている!〈詩人〉だ! きみ、詩人よ、他人の苦しみを掴まえてあたかもおのれ自身の苦しみであるかのように表現するきみの責務をもって、表現する…… 宿命は宿命が取っておいたことよりも先まで続く。ぼくはおのれの宿命の彼方にあることに耳を澄ませる。
 少年がオイディプースに身体を寄せてその服を引っ張って、まるで教会のなかにいるかのように無言で、往こう、と合図する。
 オイディプースは、夢のなかでのように、戸惑って彼を眺める。やがて立ち上がると、目にはなお涙を湛えたまま、彼のあとに続く。
 黙って歩みゆく。彼らが遠ざかるにつれて、預言者のフルートの調べは消えてゆく。
 いまは彼らはなおいっそう悲しく野性の土地を歩みゆく。
 とうとうとある狭い高台の頂きに着く。
 そこからは町が見渡せる、そして町の手前、荒れ果てた野辺の少年の指さすところに、見よ、あらゆる人間の経験の埒外に、信じがたくも、思いがけないものがいる。とある岩の上にじっと動かずに──たぶん、半ばまどろんで──ライオンの身体をしているくせにその頭は女の頭をしている獣がいる。少なくともそのように見える。だが遠く離れているだけに、たぶんあれは夢なのかもしれない。

少年 ほらあれがぼくらの町の禍だ……どこからとも知れず、彼女はここに来た……まさしくここに、来てしまった……ぼくらは、あんなにも良い暮しぶりだったのに! こんなことになるなんて誰にも想像もつかなかったことだろう。彼女がここに居すわり、何もかも終ってしまった。何をするわけでもない、あそこにいてとてもおとなしくしているよ。ただいくつか質問をするんだ。けれども答えられない者は死ぬ。だから誰かが彼女に答えられるまでは、彼女はここに居つづけ、質問しつづけることだろう。こうしてぼくらの町はお仕舞いだ。誰もかもが行ってしまう。それに残ったところでここでいったい何ができるだろう?

 オイディプースはみなまで聞かず、早くもスピンクスめがけて歩きだす……
 驚いた少年はしばらく彼のあとを追いながら、衣服の裾を引いては往かぬように説き伏せようとする。

少年 行かないで、行かないで、無駄だよ、死んでしまうよ、大勢試してはみたんだ……戻ってよ……

 見よ、ここが酷いあの谷だ。太陽の光に白々とたくさん骸骨が転がっている。
 ほらそこに頭蓋骨がある。眼窩から一本の黄色いエニシダが生え出ている。
 ほらここにあるのは胸郭だ。二匹の蜥蜴が肋骨のあいだを走りながら、小さな頭を曰くありげに動かしている。
 魂消た少年は駆け戻って、再び丘の頂きに取りつくと、そこから見守っている。
 見よ、オイディプースがあの下のほうで進みに進んで〈獣〉のまえに立ち止まる。ほら、彼らが話している。
 お互いに相手の前にじっと動かずにいる。
 何分間か過ぎたのに、二人とも動こうとしない。互いに向き合って話している。何を言っているのか?
 少年は目を覆う。しばらくのあいだそうしている。
 やがて好奇心には逆らえずに、少しずつ手を退けて、見る……
 ……オイディプースが尾を掴んで〈獣〉の屍を曳きずっている。岩の下へと苦労しながら曳きずっている、まるでおのれの勝利の戦利品を曳きずるかのように。
 少年はわれとわが目を信じない。あそこで、滑稽に、眺めつづける。やがて喜びが爆発し、気狂いみたいに叫び立て踊り回りはじめる。ぐるぐる旋回し、喜びの舞踏、一曲のタランテッラ踊りを即興で舞う。両手、両腕を揺り動かしながら、叫び、笑う。
 下のほうで、疎開者たちの誰かが、彼を見て、興味を覚える。
 だんだんに小さな人だかりが出来て、ますます大きくなり、少年が喜びの舞踏を舞う小さな丘のほうへと往く。
 少年はにわかに真っ逆さまに丘を駈け降りると、町めざして全速力で走る。そら、番兵もいない城門の前だ、そら、崩れかけた赤い家並と手のこんだずんぐりした塔を取り巻く赤い城壁のなかに入る。
 その間にも疎開者たちがオイディプースのまわりに集って、彼を眺める者もあればスピンクスをしげしげと見る者もある。それはそのときまでは町の恐怖、地獄の現身の姿であったのに、いまは屠殺された獣みたいに埃のなかの哀れな死骸にすぎない。
 そしてさっき使者が踊ったように、最も若い男たちが踊る。
 女たちは泣いて抱きあい、男どもはオイディプースのまわりに犇きあって英雄を見るように彼を眺める。
 そして見よ、あの下のほう、町の城門から新たな群衆が馬や馬車や兵隊や風にはためく旗とともに押し出してくる。使者である少年がみなの先頭切って走りつき、オイディプースの手を取りに駆け寄る。そして彼を到着する新たな群衆のほうへと引っ張ってゆく。喧噪、歓声、笑い声、音楽の真っ直中で辛うじて彼の声が聞き取れる。

少年 来て……クレオーンのもとに来て……〈王妃〉のもとに……スピンクスを打ち負かした者は〈王妃〉の花婿となる……知らなかったの? きみは〈王〉になるんだよ! ……来て……

 二つの群衆が、二つの奔流みたいに出会う。そこから猛烈な大渋滞が生ずる。少女たちがオイディプースに花の冠を被せる。若者たちが彼を肩に乗せて、町めざして凱旋してゆく。
 そしてここに最後に到着するのが、高貴なカーテン(イドリアの刺繍)で目映いばかりに白い肩輿に乗った〈王妃〉イオカステー、オイディプースの母親である。
 彼女は忽然と姿を現す。韃靼人みたいな目の、残酷で甘美な顔、そして白い衣裳の下の真っ白く膨らんだ乳房。
 オイディプースは凱旋の肩車に乗って運ばれながら、辛うじて彼女を垣間見る。ほんの一瞬のことだ。が、彼の眼差しは彼女の上に止まる。親密な淫らな束の間の表情がその眼差し、つまり白い乳房への眼差しに籠められている。
 しかし不純で無邪気に貪欲なそんな一瞬の凝視もたちまちアクションに呑み込まれてしまう。
 オイディプースは〈王妃〉とクレオーンのまえに下ろされた。そして彼は二人に敬意を表し、跪いて彼女の手にキッスする。
 いまでは〈王妃〉と交わす眼差しにおいても、彼はおのれの感情を自制する。偽善的な無邪気な尊敬をこめて彼女を見つめる。
 けれどもすぐに人びとが彼を取り戻す、みな喜びの立役者をほってはおけないのだ。
 彼をまた背中に乗せて、凱旋行列にくり出す。
 音楽が鳴り響き、旗という旗がはためく。テーバイの全住民がその〈王妃〉と彼らの新たな英雄を取り囲む。
 みなうち揃って町の城門へと赴く。


        28 テーバイの王宮(寝所)屋内。夜。

 あの遙かに遠いサチーレの夜──ほとんど別世界の夜──と同じような夜だ。そして窓の外には夜空と野辺、押し寄せてくる、行き場のない蟋蟀と雨蛙たちの鳴き声と一緒に、蒸し暑さによって磨かれて、ずっと近くに見えるくらいに光り輝く月。そしてなかには新婚の間、清められた愛のための大きなベッド。そのカバーが眩く白く、窓辺に引かれた──刺繍入りの──カーテンも白々と輝く。花嫁花婿はいないが、ベッドが彼らを待っているように見えるし、夏の夜の虫たちも彼らのために歌っているように思えて、大きな月も彼らのために明るく照らしているように見える。


       29 テーバイの町中 野外。夜。

 祭は終わろうとしている、もう夜も更けたから。けれども人びとは飽くことを知らない。あの夜が決して終らなければよかったのだろう。だから通りという通りや、埃っぽいどの小広場にもまだ大勢の人たちが夜更かししている。こちらには楽器を奏でている男がいる。あちらにはひと群れの少女たちが踊っている。そして少年たちの群れなら到る処にいるし、酔っぱらった年寄りに、燃え盛るかがり火。
 使者=少年は同じ年頃の仲間の一団と、何か禁じられたことでもやらかす様子で、無花果の樹に攀じ登り、塀に登って、無言で、とある家の屋根の上に着き、ひそひそと短い言葉を交わすばかりで、溢れんばかりの不法な喜びに浸りきっている。
 高みに着くと、彼らは他の家々よりもずっと大きくてずっと高い家、つまり王の家を眺める。
 仲間の一人が、窓辺のほうに目を凝らして、他の仲間を振り返ると、あのなかでよそ者の英雄オイディプースと美しい〈王妃〉のあいだできっと起っていることか、それとも起ろうとしていることかを仄めかしながら、無邪気にも卑猥な仕種をする。


       30 テーバイの王宮(寝所)屋内。夜。

 その窓がテーバイの家並みの屋根と野辺と月に面している部屋、その部屋の平安のなかに、新婚のふたりが入ってくる。
 まずイオカステーが、まだ婚礼の衣裳を身に纏ったままで、そしてその後から、オイディプースが〈王〉の冠とマントをつけて入ってくる。
 ふたりは入ってきて、互いの目を見つめあう。彼らが結婚したのは他人の意志ゆえだが、この意志の背後には、彼ら自身の唐突な、そして不純なくらいの意志があった。
 彼らが互いに交わしあう眼差しが、そのことを暴露している。それは共犯者同士の眼差しだ。彼らの愛はすべてが肉体にあり、精神はそのことで動顛しきっている。
 見つめあいながら裸になる。彼らが互いにその裸体を相手にゆっくりと晒すのはそのときが初めてだ、それは親密さの初めてのときである。
 外では大いなる夏の協奏曲が鎮まり、月の光が厳しさを増す。いまはオイディプースは〈王〉である花婿のその権利において裸だ。そして花嫁を眺める。彼女は被り物を取り、髪を解いて、両脚は露わだがなお軽やかな薄絹を纏っていて、片方の肩のうえで大きな黄金の止め金で、毒針みたいに長くて鋭い釦金で纏めてある。
 そうして彼女はベッドの端に腰を下ろしている。けれどもその恥じらいは処女の戦くばかりの恥じらいではない。彼女はとうに母親だったのだ。
 彼女は母親だ。たぶんそれは偽りの恥じらい、究極の淫らなくらいの媚態だろうか? それともうち勝てない女らしい慎みだろうか? 邪に近い皮肉な眼差しがとっくに愛の仕度の出来たオイディプースの目に宿る。そしてほとんど荒々しいくらいに彼は女に近寄り、毒針みたいに大きくて尖った襟止めを外す。薄絹は女の足下に落ちる。
 オイディプースは相変らず手早く乱暴に獣みたいに女を掴んでベッドに身体を広げさせようとするが、そのとき何かが彼を押し止める。
 彼はほんの少し彼女から身体を離して、彼女を見つめ、おのれの母親にじっと目を凝らす。
 遙か遠くで音楽が夜の無言にわき起り、まもなく消えてゆく。それはテイレシアースのフルートの古のモチーフだ、その調べは宿命の図面のなかになお──それでも、不可解に、母親までも……画き入れようとするかのように響きわたる。
 ゆっくりと、優しく、もう主の獣染みた乱暴さではなくて、愛する男の戦きをもってオイディプースはおのれの母親に近寄り、彼女のうえに身体を伸ばす。


       31 テーバイの地 野外。昼。

 テーバイにペスト。ペストは結局、狂った太陽にも似て、死を撒き散らすペスト、喚かせるペスト、虚ろにさせるペスト、ペスト……
 苦しい息遣いの年寄り、死んだ赤子たちが埃のなかに見捨てられた巨大な隔離病院、そこにあるのはペストばかり……
 野辺には、ペスト……
 町の中心部や、荒れ野で、ペスト……
 暗い窓辺の、家々のなかで、ペスト……
 ある者は路上で往き倒れ、そのままそこに、見開いた目に膿に覆われた膿疱、むかつくような死者となり、ある者はほかの半死人たちに抱えられ、移されてゆき、その後にも苦痛を訴えるほかの瀬死の人たちが続く……
  葬送の歌声。
 人けのない通りを往くいくつもの葬式の行列。
 町外れでの埋葬、どの石もみなそれぞれが一つの墓だ。
 赤く焼けた地平線まで果てしない墓石の群れ。


       32 王宮前の広場 野外。昼。

 小さな脅えた群衆が、王宮へ進みゆく。彼らを率いる、町の長老たちや司祭もいる。彼らはゆっくりと進む。〈王〉に助けを求めにきた民衆の示威運動だ。
 羊毛の繃帯で包んだオリーヴの葉枝を手にしている。ほとんど男たちばかりだ。無言で進みゆく。
 王宮前の中庭みたいに狭い小広場につくと立ち止まり、輪になって城門のほうを眺める。城門はまもなく開くことだろうが、その間にも彼らの顔々とその嘆願者の葉枝が垣根をなす静けさのなかに、葬送歌の哀しい調べが流れこむ。
 宮殿の扉が開かれ、そこからオイディプースが出てくる。
 彼はもう僥倖を夢みる青年〈幸運の子〉ではない。栄光においても苦しみにおいても彼は〈王〉なのだ。奇妙に成熟した顔のまわりを髭が縁取っているし、頭に被った実に丈高の冠が──塔みたいに高い──〈王〉としてのその権威に預言者的、魔術的な大いさを添えている。
 彼は戸口のまえに出て、彼を群衆よりも高みに保つ二、三段の階段のうえに立つ。そこが審問の場だ。
 そこから彼は深い悲しみに見舞われ、黙って、その深い悲しみに見舞われた臣下たちを眺める。やがて口を開く。

オイディプース 話すがよい、おのれに出来ることは何でもするために、われはここにいる。
祭司 われら、これらの子らとわたしがここにいて、おまえの竈近くでおまえに願うのは、確かにおまえを神ともわれらが思うからではない。
 われらはおまえを、人生の辛い局面における、また宿命によって定められた局面における、ただわれらすべての第一人者とだけ評価している。われらの国に達するやいなや、スピンクスの悪夢からわれらを解き放ってくれたのはおまえではなかったか? そしておまえがこの功業をなし遂げたのは、おまえがわれらよりも多くを知っていたからではなくて、みなも言うように、おまえがわれらのために再び命を与えてくれたある神の助けによってなのだ。だから、オイディプース、われらの〈王〉よ、われら一同跪いておまえに願う。われらに救済を見つけてくれ、それがいかなるものであろうと、それをすすめるのが神であろうと、われらと同じ人間であろうと、構わない……おまえは、われらのなかで最良の者なのだから、われらに再び生命を与えよ!思え、かつての日におまえが成したことゆえに、テーバイはおまえを救世主と呼ぶ。だがおまえの王国の記憶がわれらのうちに生々しく残らぬようにせよ、一度は救われたが再び陥れられた治世として!
オイディプース おまえたちがここにもたらした望みを、真にわれは知らないわけではない……不幸なるわが町の者たちよ……どれほどみなが苦しんでいるか、われは知りすぎるくらいによく知っている……だが何者もわれよりは苦しんではいない、なぜならおまえたちの苦しみは、おまえたちのうちの一人に関わるもので、他の者には関わらない。ところがわれの苦しみは、われとおまえたち、みなの苦しみであるのだから。

 彼は無言の集まりに目を凝らす。しかし誰もが嘆願者の目で彼を見ているわけではない。それどころか、とくに最も若い男たちは注意深く険しいくらいの目で彼を睨んでいる。まるで彼によって助けられるのが彼らの権利でもあるかのように。そしてすべての者よりも権力を持ちながら、彼らを助けられぬ男への憎しみすらそこには感じられる。

オイディプース ここに来て、おまえたちはわれを眠りから揺り起したわけではない……眠ってはいなかったぞ、われは。涙を流していたのだ、そうしておのれの思考のなかに千もの脱出路を探っていたのだ。
 それにたった一つ解決策はあった。そして真にそれに縋ったのだ。わが義弟クレオーンをわれはアポローンの神託所へ送った。彼の言葉によってわれが何を成すべきか知るためだ。さて、クレオーンが発った日より過ぎた日数を数えては、われは不安になる。何をしているのだ? 彼は想像しうる以上に遅れている……なぜまだここにいないのか?
 待つことの苦しみが〈王〉の渋面の下にあどけなく現われる。彼はもう父親ではなくて、動顛した息子だ。

  溶暗


       33 同じ場所。しばらく後 野外。昼。

 一時間か、一日か、それとも数日間かが経った。王宮前の汗を垂らした同じわずかな人だかりの上に、太陽が和らげられない光を降りそそぐ。
 まるで悪夢のようにどの通りからも葬送歌が響きわたる。
  葬送歌
 使者の少年が、目抜き通りを走って、到着する。広場の沈黙のなかに止まる。躊躇うように辺りを見回し、遠くからこちらを斜交いに眺めているオイディプースにはあえて向かわずに、やがて司祭に近寄ると、かぼそい声で、囁く。

使者=少年 クレオーンが到着する。

 司祭と、つれて他の人たちも、無言の脅えたわずかな群衆の占める広場の向こう、街道の奥のほうを見やる。
 すると見よ、実際、ひとりの男が進みくる。その足取りは軽く溌剌として、何か喜ばしいことを告げたい者のようで、そんな気分を徴すかのように手を揺り動かしている……

オイディプース(おのれのうちで、素朴に緊張して) 神よ、救いのさだめを齎すか! 彼の目が輝いている……
司祭 満足げに見える……すっかり月桂冠を戴いて……
オイディプース(まだ遠くのクレオーンに聞こえるように、大声をたてて)クレオーン! わが義弟よ! 息子よ! 神託所からいかなる神意を持ち帰るか?

 クレオーンは進みつづけながら、彼も大声で答える。

クレオーン 吉だ! 吉だ! どんなに酷いことでも、終わり良ければ吉だ!
オイディプース だが、神意は、神意は……われらの知りたいのは神意だ……

 クレオーンはいまは小広場の真ん中、オイディプースの前に着く。

クレオーン どうする? ここ、みなの前できみに神意を告げるか、それとも差しで、宮殿のなかでか……
オイディプース いいや、ここ、ここで、みなの前でだ。われが苦しんでいるのは、おのれの人生のためよりは、むしろ彼らのためなのだから。
クレオーン さて、ぼくが神から伺ったことなのだが。テーバイを汚染している感染源をきっぱりと断ち切らねばならぬ。つまり希望なく汚染されたひとりの人間は、もうテーバイには暮していてはならない。
オイディプース するとどのような、何を告発して、何を罰するのか?
クレオーン 彼は流刑か、それとも死をもって、殺人の罪を贖わねばならない。その殺人で流された血のせいで、いまわれらに起っていること一切がある。
オイディプース して殺されたのは、いったい誰なのだ?
クレオーン おまえのまえに、この地の〈王〉はラーイオスだった……
オイディプース それは知っている、聞いたことがあるぞ……われは彼を識ることはなかったが……
クレオーン 被害者は彼だ。そして神はその暗殺者が罰せられることをお望みだ、たとえそれが誰であろうと……
オイディプース だが、誰なのだ? どうして見つけだすのか、その暗殺者を?どこに探すのか、そんなにも昔の犯罪の手掛かりを?

 クレオーンは彼を見つめる、まず彼自身にしてからが〈神〉の託宣の素朴さに唖然としてしまった。

クレオーン  ここで、と神は告げた。

 辺りに深ぶかと曖昧な無言を生じたのはこの「ここで」という言葉だ。
 このときには、まるで奇蹟のように不意に、葬送歌さえも、止んでしまった。

クレオーン ここで。そして神はこうも告げた。知らねばならぬことは、在る。知らなくてよいことは、無い。
オイディプース しかしラーイオスは、王宮でか、野辺でか、それとも異国でか、殺されたのは?
クレオーン 彼もまた、アポローンの神託所へ赴くために発ったのだった。しかしそれっきり帰っては来なかった……

 オイディプースは注意深く精神を集中する、心を決めておのれの意図に従い始める者にも似て。つまり取調べを始める。

オイディプース 護衛か、それとも旅の道連れか、誰か証人はいなかったのか?
クレオーン 一人だけ、恐怖に戦いて、逃げ出して助かった者がいたが、その者とてたった一つのことしか言えなかった……
オイディプース 何をか? 一つのことも多くのことを指し示すことが出来る、そのなかに一筋の真実の光でもあればな。
クレオーン その者によれば、襲ったのは山賊どもで、大勢いた、彼を殺したのは、一人ではなかった、と。
オイディプース しかし、おまえたちの〈王〉の死を究明するのに何が妨げとなったのか? なぜおまえたちは当時何もしなかったのか、人殺しを見つけ出すために? なぜ?

 オイディプースは知ること行うことの虜となった。それでも彼のこうした勢いのなかには、何か強いられたもの、過多のもの、不毛な激動がある。彼は──語るというよりはむしろ喚きながら──階段を降りて、臣下たちのなかに紛れ込む。
 クレオーンの目のなかに〈王〉の意志の虚ろさを、漠然と皮肉に見てとる光が過る。

クレオーン 当時は……おまえも知るように……町はスピンクスのかける謎の支配下にあった。どうしてわれわれにほかのことが考えられただろう……
オイディプース(叫ぶように) だが、おまえたちがしなかったことを、われがしてやる! 取調べを始めからやり直して、われは何もかも暴いて、この地と神のどちらの仇も討ち、ひとつ残らず吟味して……
クレオーン あの頃には、ほかの噂もあった……
オイディプース してどんな? われはすべてを知りたい……
クレオーン 〈王〉を殺したのは、山賊などではなくて、徒歩の旅人だという……
オイディプース しかし誰がそのことを証言するのか?
クレオーン 唯一の証人が残っている、ほんの少し威しをかければ、きっと口を割るだろう……

  溶暗

パゾリーニによるオイディプース王(34~39)

          34 同じ場所。しばらく後 野外。昼。

 まだ同じ群衆がいる。ただクレオーンだけが欠けている。
 とことん知るというおのれの決意によってますます激しく駆り立てられて、オイディプースはいまはまた階の最上段〈王〉である彼の場所にいる。彼はおのれの声を抑え、もう大声はたてずに、仮借ない意志の徴にも似て、穏やかにふるえ声で話す。

オイディプース この言説には、また事実そのものにもわれはあたかも無縁であるかのようにおまえたちに話すとしよう、なぜならただ一人では、いかなる手掛かりもなしには、われは大して長くは取調べ出来ぬであろうから。
 おまえたちの〈王〉としてわれは命ずる、おまえたちの誰であれ、ラーイオスが何者によって殺されたのかを知る者はそれを明かせ、たとえ話すことによっておのれ自身を告発せねばならぬことを恐れていようとも……
 われは……われは約束しよう、その者は何ら不快な目には遭わされずに、危険な目にも遭わずにおのれの国を去ることが出来る、と……
 だがもし誰かには人殺しが別の者か、それとも異邦人か、分っているのなら、それを隠すな。なぜならその者は報われようし、みなの感謝の念によってばかりではなくて……
 しかしもしおまえたちが話さぬのなら、またおまえたちの誰かが友人のためか……それともおのれ自身のためか……計って、われの言うことに耳を貸さぬのなら、そのときにはわれのなすつもりのことをよくよく思い知るがよい。
 いまわれに属しわれの統べるこの国のすべての人間にわれは禁ずる、その者が何者であろうと、この男を受け入れ、彼に話しかけ、彼と共に神に祈ることを禁ずる。おのれの家より彼を追い出すことをみなに命ずる、なぜなら彼こそはわれらの不幸せであるのだから。そして罪のある者に関しては、予言しておこう──一人であるがゆえにか、それとも大勢の共犯者がいるがゆえにか、たとえ人目につかずにおろうとも──その生命を最も酷い苦しみのなかで閉じることを。
 そしてもしたまたま彼がここにいるのなら、そしてわが家で食卓を共にしているのなら、そしてまたわれがたまたまそのことを知っていたなら、われはおのれ自身に予言しておこう、さっき他人のために予言したその苦しみを蒙ることを。
 われは殺された〈王〉の仇を討つことを欲する、そうともあたかも彼がわが父親であったかのように ……
 いまは彼の権力はわれに移り、彼の所有地はわれの物となり、彼の妻はわが妻となった……そしてたぶん子らさえ共有することとなろう、もし彼がその一人息子を失っていなければ……

 しかしその最後の言葉が発せられたあたりに、燃える大気のなかに、奇妙な遠い昔の力強い音楽が鳴り渡り、ますます強く響いてきたので、それに惹かれて耳を澄まそうと、オイディプースはその長くて揚々とした言説を中断してしまう……

第一の元老 テイレシアースだ……彼は神のごとくに見る。ああ〈王〉よ、彼にこそ尋ねれば、何もかも知れることだ。
オイディプース(誇らかに) 彼はここへ来た、なぜならわれ自らが彼を呼びにやったからだ。それゆえわれは何もかも知るだろう。

 その間にテイレシアースは〈王〉のまえに着いて、その甘すぎる曖昧なフルートの調べを奏でるのを止めて、そこに無言で、盲の目で控えている。やがて彼が堰を切ったように話しだす。

テイレシアース ああ、知るということは何と恐ろしいことか、知ることが知る者に何の役にも立たぬときには! そしてわたしは知っていたが、わたしはそのことを忘れていた。さもなければ、わたしはここまで連れてこられはしなかっただろうから。
オイディプース どうしたのだ? 何をそんなに驚く?
テイレシアース わたしを家に帰らせてくれ! どうかわたしの言うことを聞いてくれ! わたしらふたりにとってそれがいちばん荷が軽くて済むことだ。
オイディプース だめだ! 話すことは町に対するおまえの義務だ……
テイレシアース わたしの言葉はおまえにさえも役に立たない。そしてそのような運命がわたしに降りかからぬように……
オイディプース 待て、神の御名にかけて! おまえは知っているな! われらみな、わが町の者たちとわれと、おまえに頼むのだ!
テイレシアース おまえたちは気が狂っている、しかしわたしは話すつもりはない。わたしはおまえの悪を暴きたくはないのだ……
オイディプース おまえは知っているのに黙っているのか? 町を滅ぼすつもりか? そんなにも敵意ある頑な沈黙を示すとは、おまえは石で出来ているのか?
テイレシアース おまえはわたしを面と向かって叱責し、わたしの本性を非難するが、そのくせおまえのうちに潜む本性については知りもしない。

 テイレシアースが姿を見せたその最初から不可解にもオイディプースを襲っていた俄の怒りがいまは顔を醜悪なまでに歪めて、彼に大声をたてさせる。

オイディプース 〈王〉と町を侮辱する言葉を聞いて、立腹しない者があろうか!
テイレシアース ああ、わたしが口を噤んでいたとて、事実が話しだすことだろう。
オイディプース しかしだからこそ、おまえは話さねばならない!
テイレシアース わたしはもう話しすぎてしまった。そしておまえは好きなだけ、怒り狂うがよい。

 オイディプースに対するテイレシアースの反感は深ぶかと頑で抜きがたい。彼には怒りは要らない。その理性だけで充分なのだ。それはまさしく闇に対する光の、嘘に対する真実の憎しみである。そしてそのことがオイディプースの怒りを募らさせる、彼はおのれが闇の、嘘の側にあることを知らないのだから。そして不当にも、喚く。

オイディプース ああ、そうか? それならいまこの心に浮かんだことを知るがよい。思うに、あの犯罪はおまえが命じたのだ! 盲でなかったら、おまえ自ら手を下したのだと言うところだ!
テイレシアース おまえはそう思うのか?ならばおまえに言う。おまえ自身が公布した追放令に従えばよいものを。なのにおまえはここに、われわれの真ん中にいる、そんなおのれを見よ。なぜなら、われわれの土地を不浄にする罪ある者とはおまえのことなのだから。もしもおまえがよく理解できぬのならもう一度言ってやろう。おまえが捜している人殺しはおまえなのだよ。おまえだ。だのにおまえはおのれに最も大切な者たちと不倫の関係を持っていることを知らぬ。おまえはおのれのうちに潜む悪を見ない。
オイディプース そこまで言いくさって、おまえはその言葉の咎めなしに出られると思ってか?
テイレシアース わたしはとうに無事だ。わたしの味方には真実がついているのだから。
オイディプース(われを忘れて)真実は他の誰もの味方をしようが、おまえだけは無理だ、おまえは目、耳、心さえも盲ているのだからな!
テイレシアース 不幸せな者よ! おまえは、まなしにみながおまえを罵るであろう、その言葉でもって、わたしを侮辱するとは!

 狂った希望の光が跳ねてオイディプースの目を過る。爪と牙で身を守る獣にも似て──救いをもたらす反駁に悪辣な喜びを覚えるのだ。

オイディプース 言えよ、そんなたわいもない作り話をでっち上げたのはおまえか、それとも、クレオーンか?
 富、力、偉大さ、闘いでしかないこの人生にどれほどの妬みをおまえたちは生じさせたことか! 見よ、そうとも、贈られて得た町に対する権力のせいで──われから求めたのでもない権力のせいで──初めのころは良き友であったあの忠実なクレオーンさえもいまはわれを覆そうとしている。そうとも、確かにわれの地位を奪おうとて、この老耄の魔術師を、稼ぎになるときだけ目の見える、しかもその芸術においてはつねに盲た、この乞食を送りつけたのだ!

 人びと、元老たちはこういう予測しがたい口論を聞いて、われとわが耳が信じられずに、あるときは一方を、またあるときは他方を見て、まるで見知らぬ人を見るかのように、二人を眺めやる。

第二の元老(小声で、吃りながら)オイディプースよ、わしらにはあんたの言葉も、彼の言葉も、同じくらいに怒りに煽られているように聞えるのだが……わしらに必要なのは怒りではのうて、どうしたら〈神〉の求めに応じられるのか、知ることだぞ……
テイレシアース おまえが〈王〉であるとしても、わたしだってそうしたければ、おまえと同じくらいの率直さで答えることが出来る。わたしはおまえにではなくて、神に従属しているのだからな。しかもおまえがわたしの歳月と盲を嘲ろうとしたからには、わたしにもおまえに言うことがある。おまえは視るが、なのにおのれの陥っている悪を見ない。おまえは視るが、なのにおのれがどこにいて誰と住んでいるのかを見ない。おまえは誰がおまえを生んだのか、知っているか? おまえの家族が、死んだ家族とまだこの世に生きている家族がおまえを呪っているのを知っているか?
 いつの日か戦慄がおまえをこの地上から追い出して、おまえは暗闇だけを見ることだろう。
〈幸運の子〉よ、おまえがどのようにして誰と結婚したのかをようやく悟る、そのときにはどれほどおまえは叫ぶことか! さあ、クレオーンとわたしに泥を塗れるだけ塗るがよい、それでも何者もおまえほどにはおぞましい宿命を負ってはいない。

 オイディプースはテイレシアースに飛びかかり、その両肩を掴んで、激しく彼を揺り動かす。

オイディプース そうしてこんなふうにおまえが喋るのを、われが耐えねばならぬというのか? おまえはいつになったら行ってしまうのだ? 立ち去るのに何を待っているのだ? 往け、往け、ここから去れ!
テイレシアース わたしがここにいるのは、おまえが呼んだからだ。

 オイディプースは彼の向きをくるりと変えさせて、荒々しく肩を押す。

オイディプース こんな馬鹿げた話を聞かされると思ったら、決して呼びなどしなかっただろうに!

〈王〉のひと押しによって辱められ、テイレシアースは立ち去るが、立ち去りながら裁く者の悲しい頑さを見せて後ろを振り返る。

テイレシアース これがわれわれの宿命だ。われわれはおまえにとっては気狂い、おまえを生んだ者にとっては賢者だ……
オイディプース(獰猛な怒りから子供っぽいくらいの好奇心に移って)止まれ! 何と言った? 誰がわれを生んだだと?
テイレシアース 往こう。少年よ、案内してくれ……

 テイレシアースは彼の案内をする少年に寄りかかって、遠ざかってゆく。オイディプースは彼の背後で喚き続ける、純真な絶望しきった好奇心から再び怒りに戻って。

オイディプース そうだ、そうだ、往け、行ってしまえ。ここから失せろ。おまえと一緒にわれの苦しみも失せることだろう。

 けれどもテイレシアースはまだ言いおえたわけではなかった。立ち止まって、もう一度口を開くために振り返る。

テイレシアース わたしは往くが、おまえに告げねばならぬことを本当に言い終ってからのことだ。
 よくよく聴くがよい。威しや命令でおまえが捜している、その男はここにいる。みなが思い込んでいるようによそ者ではある──が、ここに居住している。ところが、やがて彼がテーバイの生れであることが知れよう。しかし彼はその発見を喜ぶまい。なぜなら彼は盲となって乞食をしながら、他の国々へ立ち去るだろうから。またもよそ者となって、杖で地面を探りながら。知るであろう、彼はその子らの同時に兄であり父親であることを。彼はその母親の息子であると同時に夫であることを。それゆえ彼はおのれの父親のものであったのと同じ女と結ばれたことを、そして彼のみが父親の殺害者であることを……

 オイディプースは彼の言葉に耳を澄ます。が、まるで聞えぬかのように彼を見つめる。
 おのれのうちで、何か他のこと、秘かにおのれの魂を描く言説を聞く。
 暴露のどの瞬間も──暴露された事柄はおぞましくとも──その神秘的な、幸せに近い生命力に溢れている。
 こうして内気な、異形の微笑みが生れたばかりで、オイディプースの顔だちの上に貼りつく。いくらかぼんやりした、いくらか狡い微笑みが。彼はおのれのうちで真実の酔わせる液体を飲み干す。
 テイレシアースは立ち去ってゆく。
 相変らず唇の上に笑みを浮かべたまま、オイディプースは王宮のなかに再び入る。


      35 テーバイの王宮。さまざまな内部 屋内。昼。

 王宮内に入るやいなや、仮面の、宙吊りの微笑みはオイディプースの顔から剥げ落ちる。恐怖の表情がその顔に描かれてゆく。暴露はその陶酔と共に地に落ちた。そして曝露されたことだけが残った。曝露されはした、だが受け入れられたわけではないし、信じられたわけでもない、撥ねつけられたことだけが残った。
 王宮内を、彼はロボットみたいに歩く。
 そこでは、保護されているように身に感じる。
 そして実際に大いなる平安がある。豊かさの平安。しかも町中と違ってここでは恐怖が支配していない、あたかも王宮は時化の大海原のなかの安全な島でもあるかのように。
 何もかもが奢侈のなか、安堵させる薄暗がりのなかで輝いている、部屋部屋、僧院の落着きと泉の甘美な噴水のある内奥の狭い中庭。
 それどころかいまは王の部屋部屋の奥からひとつの声が上がる、楽しくも悲しくもない、それゆえに楽しい歌を唱うひとつの声だ。子供っぽいことを天真爛漫に唱う、伝承の古い時代の歌を爽やかな粗削りの少女の声が唱っている。
  少女の歌
 その歌声に導かれるかのように、オイディプースは王宮中を横切って、女たちの部屋に着く。見つからぬままに、薄暗がりのなかで、観察している。
 修道院の厳しい甘美さの漂う狭い中庭の真ん中で、イオカステーがその侍女たちと、熱心に女たちの仕事をしている。手織機で織っている。少女たちは彼女のまわりにいて、静かに手伝っている。そして一人が、まさしく、唱っている。
 オイディプースはおのれの女を見つめる。だが彼にとって、この彼の女とは何者なのか? 確かにいまではもうそれを悟らずにはおれなかったし、たとえ悟らぬまでも、せめて感じずにはおれなかった。テイレシアースの言葉は明らかすぎるほどだった。知りたがらずにおれたとしても覚えずにはおれなかった。明らかなテイレシアースの言葉が狂っていたとしても、それでも「母親」という言葉は発せられてしまった。いま、オイディプースがあの彼の女を異なる眼差しで見ずにおられようか?
 彼女はあそこにいて、その女らしい……家の女主人の……母親の仕事の仕草に、白いヴェールが落ちかかる。そう、母親の仕事だ。なぜなら彼女はそのすべての様子、仕草、もはや乙女の肌ではない白い肌、さらには肌の露わさも気にしないあの彼女の淫らな無頓着さにおいてさえも母性的だから……オイディプースはその露わな肌を見て、堪えきれずに彼女に近寄る、口を噤み、見て王と分らぬくらいに動顛して強奪者みたいに……
 あの侍女は歌うのを止める。


      36 王宮(寝所) 屋内。昼。

 昼間の光のなかのベッド。オイディプースの父親と母親の大きなベッド。
 いまはすべてが黙している。そして王宮のなかに町の唖の苦しみがのしかかる。
 オイディプースとイオカステーが無言で、彼らの部屋に入る。
 彼女はびっくりしているが、黙っている。
 オイディプースはまだ部屋へ入りきる前から、獣じみた激情にかられ動顛して、女を掴む。確かに犯す喜び、堕落させるが世界中で最も素晴らしく最も必要な行為を遂げる荒々しい陶酔を覚えながら。
 女から衣裳を毟りとろうとする。だが忌ま忌ましいあの釦金が母親の胸のうえに頑に閉じられている。彼はそれをこじ開け、匕首みたいに長いその毒針で両手を刺す。血が流れ出る。その血を舐める。
 しかしいまはすぐにも所有の行為を遂げるかわりに、彼女から身体を少し離して、彼女を見つめる。
 それは長い凝視だ。彼と彼女を犯し虐殺する凝視、揚々とさせる恥であり、冒涜する瞑想である。
 そんな幻視を眸に溢れさせ、いまオイディプースは再び微笑む。彼を醜悪にし、彼を邪悪で下品にする汚れた笑みなのに、まさにそのことが彼を有頂天にする。
 ついに女を殺すか、それとも引き裂くかのように、彼女のうえに身を投げる。


       37 王宮のロビー 屋内。屋外。昼。

(王宮の公的場所である。大がかりな民衆の集会に供せられるような──先のシーンにおけるような──場ではなくて、指導者、王子、元老たちのための場である。
 町中とここ、王宮のこの狭い中庭の上に、災厄の曖昧な空気がますます重くのしかかる。)
 長老たちのあいだに、クレオーンがそこにすでにいる。彼らは小声で話しあっている、陰謀か、それとも責任者たちの秘密会合かにも似て。
 クレオーン自身の人格や眼差し抜きには、何ひとつ露わにはなるまい、彼は誠実なのか、それとも不誠実なのか、また彼は真実を愛しているのか、それとも愛していないのか。

クレオーン わたしは知っている、オイディプースがわたしに対して非常に重大な非難をしていることを、わたしは知っている。だからこそわたしはここにいる。わたしが彼に対して何かしたと、もしもオイディプースがほんとうに思い込んでいるのなら、わたしは自己弁明せねばならない。加辱の嫌疑のもとに暮したくはないからな……
長老 蛇が、あんたが非難されたのは逆上の挙げ句のことなんだから、落着きなされ……
クレオーン しかし彼はおのれの言ったことが分っていたのか、それとも分っていなかったのか?
長老(故意に口を噤み、たぶん臆病ゆえに)分らない。目上の人のすることはわしにはよく分からぬて……

 オイディプースが入ってきて会話は途絶える。沈黙は不快に緊迫している。
 オイディプースは奇妙にも自信に溢れて、見るからに〈王〉らしい。
 けれど彼の攻撃的な自信は勝ちたい者のそれではなくて、屈したくない者のそれである。

オイディプース(意地悪く)おや、めずらしい! どうしておまえがここにいるのか? いったいどの面下げてわが家にまた顔を出せたのかな、いまではおまえがわれを除いてわが王国を横取りしたがっていることは太陽みたいに明らかなのに? おまえがここに来たのは、ひょっとしてわれが臆病者か、それとも気狂いかとでも思ったのか?
 何に望みをかけているのか? 民衆と権力はみなわれの側にある。おまえは手に何もない。
クレオーン さておまえは話した、こんどはわたしに話させてくれ……
オイディプース おまえは無実だと、われに対して何ら邪な意図は持たぬと言うのではあるまいな……
クレオーン 邪な意図? それならどんなわたしの行動があって、おまえが愚痴をこぼすのが尤もなのか、示してもらおう。
オイディプース テイレシアースに尋ねてみよとわれを説き伏せたのはおまえではなかったか?
クレオーン そうだ、わたしだ。いまでもそうして良かったと思っている。
オイディプース どれほどの時が経っている、ラーイオスのときから……
クレオーン ラーイオス?
オイディプース ……ラーイオスが殺され、手掛かりもなしに逝ってから?
クレオーン 長い時が過ぎた。
オイディプース で、テイレシアースはその当時も、預言をしていなかったか?
クレオーン そうだ、していた。誰からも尊敬されて今日と同じように。
オイディプース そしてその預言のなかで、たまさか、われのことを言いはしなかったのか?
クレオーン 少なくともわたしの前では、決して。
オイディプース それならば……あの死については……おまえたちの〈王〉……ラーイオスの……おまえたちは何の取調べもしなかったのか?
クレオーン いや、むろん調べたが、無駄だった。
オイディプース ならばこの件でも、なぜテイレシアースは何も言わなかったのか?
クレオーン 分らない……

 オイディプースはその貧しい勝利に勝ち誇り、怒りにわれを忘れて大声をたてる。

オイディプース あは、分らない! そしてわれらの捜す人殺しがわれだと彼が触れ回るときに、おまえと彼が示し合せたことも分らないのだな?

 クレオーンも怒りにわれを忘れる。彼に関することすべてと同じように、不可解な怒りではある。なぜなら彼が何者で、彼が本当は何を望んでいるのか、われわれは知らないのだから。

クレオーン むしろおまえこそわたしに言ってくれ、おまえの妻はわたしの姉ではないのか?
オイディプース(喚きながら)確かにそうだ!
クレオーン たぶん、おまえは彼女と権力を分ち持っているのではないか?
オイディプース(相変らず喚きながら)確かに、われは権力を彼女と分ち持っている!
クレオーン ならばわたしはおまえの脇に立って、対等ではないか? わたしに足りぬ何があろう? いや、いや、わたしは元首になんかてんでなりたくない。わたしは最小限の知恵を持つ誰とも同じく、元首みたいに暮せれば充分だ。欲しいものは何もかもおまえから得ているではないか、わたしは? しかも苦労なしに、どんな類の心配もなしに?それなのにもしわたしが〈王〉だったら、どれほど嫌なことでもしなくてはならぬことだろう。不安や責任ずくめのなんて暮しだろう……いや、いや、狂気と悪事とは同じひとつのことだ。あいにくわたしは気狂いではない、いまの暮しよりもまるでよくない地位を望むほどにはね。おまえ自らアポローンの神託所へ往くがいい。おまえの耳で確かめるがいい、わたしがおまえに持ち帰った神託が本物か、それともわたしがテイレシアースと共謀してでっち上げたものかどうか。もしもでっち上げだったら、わたしを死刑にして、正しいのはおまえだが……
元老 彼の言うことは充分に分別があるように思える……オイディプースよ、聞くがいい。
オイディプース 分別がある? だがわれも分別がなくてはな。彼のたくらみを失敗させてわれの思いどおりにしてこそわれも分別があるというものだ!
クレオーン どうしようというのか? わたしを流刑にするのか?
オイディプース いいや、おまえの罰は流刑ではなくて、死刑だろう。
元老 君主たちよ、たくさんだ、お願いだからそういうことは言わずに……黙って、黙って……

 劇的な瞬間の混乱のなか、反動の渾沌のなか、回復できぬことが起っていながら、すぐにはそれを説明できぬときに、とりわけそれを確かめえないときに──そしてある者は喚き、ある者は黙し──オイディプースとクレオーンが喚きあっているのが聞える。他方、元老たちは仲間うちで話しあって調停者として、割って入る仕方を探っている……

クレオーン 画面外 わたしを罰するがいい、しかしおまえの憎しみの理由は何だか言え! 本当の理由を!
オイディプース 画面外 なぜなら、おまえは目下であることに甘んじないからだ!
クレオーン 画面外 そんなのは嘘だ!嘘だ!
オイディプース 画面外 嘘をついているのはおまえだ!
クレオーン 画面外 わたしを理解したくないのなら。
オイディプース(憤激してたわいもなく)譲ろうとしないのはおまえだ!

 こうした喚き声や、元老たちの不均衡で手に負えない右往左往のなかに、イオカステーが入ってくる。うち眺め、事態を把握しようと、口を噤む。

クレオーン 画面外 おまえの気違いじみた命令など信ずるか……
オイディプース(画面外。泣かんばかりに) おお、テーバイよ! おお、テーバイよ!
クレオーン 画面外 わたしだってテーバイ人だ、おまえばかりではない!

 イオカステーがいきなり介入するが、奇妙にも超然として落着き払っている、まるで現実に関りたくない、受け入れたくなくて、むしろ事態を無視する者かのように。

イオカステー あなたたちのあいだに何が起きたの? なぜそんなに喧嘩するの、なぜ? 町がこんな有り様だというときにあなたたちは恥ずかしくはないの、自分たちの個人的な問題でいがみ合って? オイディプース、あなたはあたしと王宮へ戻らないこと。そしてあなた、クレオーン、自分の宮殿へ帰りなさい。さもないと何でもないことから大きな不幸が生まれてよ……

 きっぱりと、優雅に、知ろうとしない者のあの感染的な落着き払った物腰で、オイディプースの手を取りにゆくと、男は少年みたいにたちまち屈して、連れ去られるままになる。
 元老たちはイオカステーとオイディプースから数歩遅れてついてゆく、まるであのオイディプースの屈伏につけ込んでさらなる安らぎへと説きつけるかのように。

元老 善良で賢明であれ、オイディプースよ、譲ることだ……
別の元老 誠実であると誓った者は尊重してやらねば……
三人目の元老 誓った友人を、証拠もなしに漠とした非難で辱めまいぞ……
元老 古い悪に、新たな悪をつけ足したくはないものだ……

 オイディプースは、いまではその私邸の敷居の上にいる。母親にしっかりと手を握られて、振り返るが、温和な戸惑った顔つきに変っている。

オイディプース そういうことなら往かせるがいい。彼のためにそうするのではなくて、おまえたちのためにだ……かつ、このようにして、われはおのれ自身を罰する……
クレオーン おまえに屈するが、遺恨をこめてだ。なぜだ、オイディプースよ、なぜ?
 
 オイディプースはまたもかっとなって言うが、こんどは絶望しきっている。

イディプース(喚きながら)往け、往け、何を待つのか、さっさと往ってしまえ!

 そしてイオカステーと共にその私邸に入ると、もう後ろを振り向きもしない。
 クレオーンは踵を巡らし、反対側から無言で、町へと出てゆく。


       38 王宮内部 結婚の間まで 屋内。昼。

 イオカステーとオイディプースが手を繋ぎ──導かれるままになっているのはオイディプースのほうだ──彼らの家の部屋部屋に沿って黙って歩いてゆく。
 しばらくのあいだ彼らは話さない。するとそこに、風に乗って遠くから、なおも葬送歌が王宮のなかに入り込む。
  辛うじて聞き取れる葬送歌。
 大気中に漂うあのかぼそい死の歌声と共に、ふたりは歩く。
 そして黙っている。
 中庭に着くと──そこについ先程までイオカステーが侍女たちに囲まれて坐って紡いでいたのだが──ほとんど同時に瞬時の共通意識から、ふたりは固く手を握りあって往くことにする。
 握りあった手への視線の ディテール 。
 ほどける手と手の ディテール 。
 こうして母親と息子はいっそう悲しみに沈んで孤独に、彼らの寝所へと、習慣によってか、それとも世界からほんとうに身を隠せる避難所を探す本能によってか、押しやられるかのように歩みゆく。


       39 寝所 屋内。昼。

 部屋に入る。すると、大いなる冷えきった沈黙が彼らを迎える。イオカステーはベッドの縁に腰を下ろす。オイディプースは彼女に背を向け、町の家並の屋根を望む大きな窓のほうを向いている。あちらから、どれほど果てしなく遠く離れていようと、いくらかよりはっきりと葬式の嘆き声が届いてくる。

イオカステー なぜ……なぜ、あなたとクレオーンが……

 オイディプースが荒々しく振り返る。

オイディプース なぜならおまえの弟のクレオーンがぼくこそラーイオスの暗殺者だと非難するからだ、まさにだから……
イオカステー だけど……そんな非難をするのは……彼が自分で考えたことなの、それとも誰かが彼に入れ知恵したの?……
オイディプース いや、彼はぼくの前にテイレシアースを寄越した……ぼくを非難したのはテイレシアースだ……彼はおのれは無実だと言っている……

 初めの怒りから、いまはオイディプースは話す必要から話している、助けを求めるかのように。そしてイオカステーは酷い不幸の儀式におけるかのように、小声で答える。

イオカステー それがあなたのお話しなら……あなたは気を安んじるがいい……人間であるかぎり何者も予言者とはなれない、何者も! よく聞いて、あたしが間違っていたら言って! 昔、わが夫、ラーイオス王にある預言が下った。その預言によれば、彼は、あたしと彼から生れたその息子によって殺されるとのことだった……ところがどうお、彼はその息子によってではなくて、一団の掠奪者たちによって、断崖と川で狭まる街道沿いで殺された……いまはあなたも知っておいて、ラーイオスはあたしたちの息子のあの赤子を掴まえると、足を縛って、近寄りがたい山の崖のあいだに投げ込ませ、そこで死なせた……さあ、これだから、預言がどんなふうに未来を当てることか、あなたにも判断できてよ! オイディプースよ、心配しないで、あたしを信じて。もしも〈神〉がその意図を示したいのなら、曖昧さなしに、仲介者なしに示すといいのだわ!

 イオカステーが話すにつれて、オイディプースの顔に恐怖が浮び上がってくる。いまは動顛しきって彼女を眺めている。

オイディプース そんなおまえの言葉に、どれほど苦しみと驚きをぼくが覚えたことか、おまえに分れば……
イオカステー(彼女のほうも驚いて)でもなぜそんなことを言うの! 何を怖がっているの?
オイディプース ラーイオスは殺された──おまえが言ったのだ──川の上に掘られた崖道の街道で……
イオカステー ええ、そういう話よ……
オイディプース それでその場所はどこだ?
イオカステー アポローンの神託所からここまでの道筋だわ……
オイディプース そしてどれほどの時が、正確には経ったのだ?
イオカステー 暗殺のニュースが届いたのは……あなたがここテーバイに着くほんの少し前のことよ……

 いまやオイディプースの目のなかの恐怖は幼子のそれみたいに剥き出しとなる。彼は黙り込み、やがて両手で顔を隠す。

オイディプース 〈神〉よ! 何てことをぼくにさせたいのだ!

 そしてこうした言葉の響きは決して終らないように思えた、なぜならそのあとに長くて苦しみに満ちた沈黙が続いたから。

イオカステー 分らない……なぜ、あなたがそんなことにそれほど関心を持つのか……
オイディプース ああ、お願いだ、ぼくに何も聞かないでくれ。当時、ラーイオスはどんな外見をしていた? 何歳だった?
イオカステー 背が高くて、白髪が多くて。あなたとさほど変らなかった。

 この宿命の新たな一撃にまたも長い沈黙。やがてオイディプースが物凄い笑みを浮かべてまた話しだす。

オイディプース そういうことならたぶん本当だったのだ。これまでぼくはおのれ自身を呪ってきた……
イオカステー 何て言ったの? それになぜそんな顔をするの……あなたを見ると怖いわ……
オイディプース ぼくも狂った恐怖にとり憑かれてしまった、テイレシアースが本当に真実を見徹すのではないかという恐怖に……しかし言ってくれ……おまえの夫、ラーイオスはお忍びでか、それとも大勢お供を引き連れてか、旅をしていたのは?
イオカステー 彼はお供に五人連れていた、兵士が四人に下男を一人、そして馬車はたった一台で出かけていった……
オイディプース そして誰があの一切のニュースをもたらしたのか?
イオカステー 下男が、たったひとり助かった男が……
オイディプース(叫ぶように)そしてその下男はいまもここに、この宮殿にいるのか?
イオカステー いいえ、彼が戻ってきてあなたがラーイオスの座にいるのを見ると、テーバイから出来るだけ遠い野辺でわが家の家畜を放牧することをあたしに願ったので、叶えてやった。あの忠実な下男には、もっと報いてやってもよかったくらいだったから……
オイディプース ただちに彼をここに来させてくれるか……
イオカステー もちろん、そうするけれど、なぜ彼に会いたいの?
オイディプース もう他の質問は止してくれ……ぼくは話しすぎたくらいだ……こんなことまで、話したくないのに話してしまった気がする……

 こうした不明瞭な言葉を、夢のなかでのように、まさしく「したくないのに」彼は発する。
 しかしその間にも彼の目はイオカステーのうえにわれを忘れる。もう愛ではないのになおも必死にそうであろうとする愛の眼差しをもって彼女を見つめる。
 彼女を見つめる。幸せな甘美な顔、蛮族風で王者らしい長い目、喉、白くて大きな乳房……胸の上で白い衣裳を支える釦金……
 彼女に近寄り、手を掴む。彼女に助けを求めるためにか? 彼女にしがみつくためにか?
 けれどもその仕草はたちまち別の仕草に変わってゆく。
 彼女の手を放して腰を掴んで、身体ごと引き寄せて、抱き締めながら口に口づけする。
 しかし抱擁と口づけは、非現実化されたかのように、ひとりでに次第に解けてゆく。
 だのに相変らず抱擁したまま、口から口へ、オイディプースは唐突にまた話しだす。

オイディプース ぼくの父親はポリュボス、コリントスの王だ……そしてぼくの母親はメロペー……けれど、ある日……ぼくに腹を立てた一人の仲間が……ぼくのことを……ぼくの父親の貰い子だと呼んだ……ぼくは黙ってられずに、両親に問い質した……彼らはそんなふうにぼくを侮辱した者に対して立腹したが、ぼくはその話が真実だったのを悟った……

 再びイオカステーに機械的、無意識的、そして絶望的な口づけをするが、すぐにまた話しだす。

オイディプース ……でもぼくのなかにはある思いが残った……何かどうしてもぼくから振り払えないものが……アポローンの神託所に往くことにした……でも神は……ぼくの願いに答えないばかりか……別のぞっとするようなことをぼくに顕わす。ぼくに告げる……ぼくはおのれの母親とセックスする宿命だった……そして彼女と怪物じみた子らをつくる……ぼくがおのれの父親を殺すのも宿命だったとぼくに告げる……そのような預言を受けて、誰がなおコリントスへ帰る勇気をもてたことだろう?
 再び両腕でイオカステーを締めつけるが、こんどは口づけはしないで、絶望しきった顔を彼女の肩と頬のあいだに沈める。
 そしてこうして、無のなかを凝視しながら、彼は話しつづける。

オイディプース ……コリントスとは反対の方角へあてもなく踏み出した……そして……川の上に掘られた崖道の街道で……衛兵四人に下男を一人供にした馬車に乗った男に出遇った……喧嘩になって……ぼくは衛兵たちとあの男、ぼくを圧迫しようと、居丈高にぼくを侮辱したあの男を殺した……いま、あの男とラーイオスの間になんらかの類似があるとすると……ぼくは……
イオカステー(彼を遮りながら)オイディプース、あなたの話であたしは怖くなった。だけど、決定的な証言を聴くまでは、待って、希望を捨てないで……
オイディプース(彼女から一瞬、身体を離して)それこそぼくに残った一縷の希望だ……おまえも知るあの下男だ……彼は何人もの山賊が〈王〉を殺したと言った……ああ、やって来て彼がまたこの話を繰り返すなら、この真実を確実にしてくれるなら……

 悪夢のあり得る終焉というあの不条理な、新たな希望についかられて、オイディプースは腕のなかのイオカステーを再び抱き締める。そして彼の手は花婿の長年の習慣で、イオカステーの肩の上で衣裳を支える大きな釦金へと伸びる。
 しかし同じように無意識的に、新たな他の何ものよりも激しい直観ゆえに、イオカステーの手も伸びて、オイディプースの手の上に重なって、釦金から遠ざける。ふたりは、こうして、互いに向きあって見つめあう。
 それは一瞬の、表情のない眼差しだ。
 やがてイオカステーはオイディプースから身体を引き離すと、逃げるような足取りで遠ざかってゆく。

2009年1月13日火曜日

パゾリーニ オイディプース王(40~48)

                  40 王宮のロビー
                 屋外=屋内。昼。


 元老や公爵たちがまだそこにいて、町のあの由々しいときに集っている。不安そうに、脅えて、仲間うちで話しあっている。
 イオカステーの不意の到着は、逃げるような彼女のあの足取りは、町の老いた指導者たちの一団に混乱をもたらし、一同は呆れて彼女を眺め、彼女を迎えに立った。

イオカステー わたしは祈りにゆきます……諸聖堂の神々に祈りにゆきます……オイディプースはあまりの苦しみに心を膨れ上がらせてしまって……理性に従って古いことによって新しいことを解釈しないで、痛ましいことであれば人びとが彼に言うこと何もかもに曳きずられるままになって……わたしたちみなのために祈りにゆきます、なぜなら彼、このわれらの良き嚮導が恐怖に狂っているのを見ると、わたしたちみなも脅えてしまうから……

 だがこのときそこへ、従僕や兵士に導かれて、一人の男が入ってくる。それは大層な年寄りで、寄る年波に身体に震えがきている上に、傴僂で白髪なのだが、眼は活き活きと留針の先みたいに鋭い。

老いた使者(コリントスの従僕)わたしがここ、あなたがたの町へ来たのは、〈王〉のオイディプースと話すためだ。
イオカステー わたしは彼の妻だ。おっしゃい、何の用か、何を話したいのか?
老いた使者 あなたと、あなたの家にとっては、良いニュース……
イオカステー どんな?して何者の名の下におまえは来たのか?
老いた使者 わたしはコリントスから来た。わたしはあなたに喜びをもたらす知らせを持ってきた。たぶん悲しみも。
イオカステー さあ、おっしゃい……
老いた使者 コリントスの住民たちはオイディプースを彼らの〈王〉に選ぶつもりなのだ!
イオカステー なぜ?コリントスの〈王〉はオイディプースの父親、老ポリュボスではなかったのか?
老いた使者 そうだった。いまは彼は死に、とうに墓所のなかだ……

  溶暗。



               41 同じ場所。しばらくして
                 屋外=屋内。昼。


 いまはオイディプースもいる。塔みたいに丈高な冠をいま一度頭に被り、その無疵な王の威厳にすっかり包まれている。測り知れない当然の悲しみが彼の顔に溢れている。

オイディプース どのようにしてわが父上は亡くなったのだ?何か陰謀か、それともむろん、病ゆえにか?
老いた使者 まあ、あなたの父上は年寄りだった、たいそう年寄だった。そして何でもないことでも年寄は死んでしまう……

 オイディプースの長い沈黙。その口実にはあの訃報ゆえの悲しみがあり、それはまた真実の悲しみでもあった。やがてまた話しだすときには、独り言のように話す。

オイディプース 預言が何の役に立つのだろう?イオカステーよ、おまえが正しかった!
預言によれば、われはおのれの父親を殺すはずであった。ところが彼は死んで、その墓のなかにいる……われの遠くにあるを悲しんで死んだのではないかぎり……そのような場合にのみ、われは殺害者なのだが……

 イオカステーが彼に近寄り、彼の手を握る、まるで彼が、その瞬間に、勝利者でもあるかのように。

イオカステー お分かりになった?もうここ数日間あなたを脅えさせていたような酷いことは何一つお考えにならないで……
オイディプース そうだ、だがいま一つなおわれを脅えさせることがある……おのれの母親との愛という考えだ……いまはそれがなおわれを脅えさせる……
イオカステー でもなぜ?なぜ?わたしたちは偶然のなすがままにあるし、わたしたちの誰一人としておのれに起こることを事前に知ることは出来ないのよ。最も賢いことは運命のなすがままに任せて、出来るだけのことはして生きることよ……それになぜあなたはおのれの母親の愛人となるという考えにそんなに脅えたのよ?なぜ?どれほどの男たちが、夢のなかで、おのれの母親と愛を交わしたかも分からないのに?

 こうした言葉は集まりの無言のなかにまるで曝露するもののように落ちる。男たちはオイディプースとイオカステーを脅えたように見つめる。だが、なかには微笑む者もいる、規範を外れたこと、即ちスキャンダルをまえに、気やすい恐ろしい微笑み。

イオカステー 誰か母親と愛を交わす夢を見たことのない者がいようか?なのにそんな夢に脅えて暮らすなんて?いいえ、無益な苦しみなしに人生を過ごしたいと願わないのでもなければ!
オイディプース わが母親が生きておらぬなら、おまえの言うことももっともだが、彼女は生きているのだ。だからこそわれは恐れる、恐れぬことなど出来ないのだ、たとえおまえが正しいとは分かっていても。
イオカステー でもその間にも父親の墓は大きな見開いた目よ!
オイディプース そうとも、大きいとも!それでもわれは生きている母親が恐ろし……
 
 留針の先みたいに鋭い目の、老耄が割って入る。

老いた使者 何であなたが彼女を恐れることがありましょう!そんな恐れはお捨てなされ、お捨てなされ……してわたしがその理由をお話ししましょう……  
オイディプース 老人よ、どんな話だ?どんな理由だ?
老いた使者 ポリュボスはあなたの本当の父親ではなかった……
オイディプース おまえは気狂いか?何てことを言う?
老いた使者 ポリュボスがあんたの父親ならこのわたしだってそうなれたことだろう!
オイディプース (喚きながら)おまえは無だ、何者でもない!だが、彼は、彼はわれ
をなしたのだぞ!
老いた使者 いいや、われらふたりのどちらもあなたをなしてはいない……
オイディプース (絶望して、子供みたいに相変わらず喚きながら)それならばなぜ彼
はわれを息子と呼んだのか?
老いた使者 あなたが生まれたてのころに、彼の許にあなたを運んだのがわたしだった……
オイディプース おまえが?しかし彼はわれをあんなにも慈しんでくれたのに?
老いた使者 彼には跡継ぎがいなかった、だからこそあなたを愛したのだ!
オイディプース ならおまえは……おまえはわれを買ったのか、それとも見つけたのか?
老いた使者 わたしはあなたを、たまたま、キタイローン山で見つけた……わたしはポリュボスの家畜を放牧しているところだった……
オイディプース そして苦しんでいるわれを見つけたのだな……死にかけているわれを……
老いた使者 あなたの小さな足は紐のせいで破けていた……
オイディプース ああ、おまえはわれに昔の痛みを思い出させる……
老いた使者 そう、あのせいであなたは子供のころから〈脹れ足〉という渾名だった、思い出すかね?
オイディプース 疾うに襁褓のころから、われは最初の恥をかいていたのだな。しかしあそこにわれを運んだのは誰か、われの父親か、それとも母親か、おまえは知らないのか?
老いた使者 ラーイオスの下男だった……
オイディプース まだ生きておるかな?
老いた使者 わたしは知らないが……
オイディプース 誰か、ここに、それを知っておる者はおらぬか?何もかも明るみにさらけ出すときが来た!

 オイディプースは興奮状態に近い。まわりの人びとは彼を眺めて、彼に、その探索の発作に曳きずられて、彼を助けようとする。

元老 思うに、あなたが探しに送ったまさしくその同じ下男のことではないかな……ラーイオス殺しの証人の……しかしイオカステーのほうがわれらよりも良く彼を知っているはずだが……
イオカステー とんでもない、だめ、何を探しているの、何を話しているの?オイディプースよ、首を突っ込まないで、まったく時間の無駄よ!何もかも無視したほうがいい、ずうっといいわ、そんなことより……
オイディプース おまえは間違っている!われは知りたいのだ、ついに、われは何者なのかを!
イオカステー 後生だから、探索は止して……生命を愛しているのなら。わたしの苦しみはもうたくさん……
オイディプース 調べたら、われが貧しい人びとの息子だと知れるのを、おまえは恐れているのか?おまえは高貴の人だ、心配するな、おまえは高貴の人のままだろう!
イオカステー オイディプースよ、探索は止して!お願い、わたしの言うことを聞いて!
オイディプース それは出来ない。はっきりと見ることが必要なのだ。
イオカステー 可哀相なオイディプース!あなたがおのれが何者か決して知ることのないように!

 無言で、イオカステーが退出する。逃げもしないし、走りもしない。その足取りは、深ぶかと嬉しいほどの必然性に従うかのように、彼女を確実に曳きずってゆく。

元老 イオカステーはどこへ往くのか?彼女のあとを追え、オイディプースよ、彼女のあとを追え、彼女の傍にいて、なぜこんなふうに振舞うのか、訊け、彼女を退出させるほどの、この俄の測り知れない苦しみは何なのか。
オイディプース 構うものか、一向に。われは誰に生命を負うているのか、識るときが来たのだ。いまは、われの捨て子の賤しい出自を、彼女は恥ずかしがっているのかもしれない。そのとおり、われは〈幸運の子〉だ!これこそがわが母親だ!われは恥ずかしいとは思わない。わが生涯でわれは苦しみ、楽しみ、笑い、泣いた、なぜならあの女、〈幸運〉がわが母親だから!そしてもしこのようにしてわれが生まれたのなら、また違ったふうにではありえないのなら、なぜ真実を探しつづけてはいけないのだ?

  溶暗。


                  42 王宮前の広場
                  野外。昼。


 ふたたび民衆が王宮前に群がっている。
 みなの真ん中に、そこまで彼を導いてきた少年である使者の傍らに、いまは老いた下僕──赤子のオイディプースをキタイローン山に運んだあの男──ラーイオス殺しに居合わせたあの男がいる。彼も寄る年波にすっかり老耄ている。しかし彼は齢による震えと一緒に恐怖による震えによっても身を震わせている。
 彼の前にはコリントスの老いた使者がいる。二人の老人は、無言のうちに互いに相手をそれと識って、宿命を生き抜いてきた男たちのいわくありげな、敵意ある、奇妙な眼差しで、睨みあう。
 オイディプースもそこ、階段の最上部、宮殿から出た〈王〉が審問を許す場所にいる。そして頭にはその丈高い冠をなおも被っている。彼はコリントスの老いた使者を見守る。
 不可解にも絡まりあうこうした三者の眼差しのほかにも、不安げな、無関心な、敵意ある、そして笑みを湛える眼差しさえある。異質性を告げて曝露する笑い、子供っぽいと同時に手に負えない皮肉の溢れんばかりの笑いを笑う眼差し。

オイディプース おまえが話していた男は、この男か?
老いた使者 そうだ、この男だ。
オイディプース それでは老人よ、おまえの番だ。われを見て、われに答えよ!昔、おまえはラーイオスの従僕だったか?
老いた従僕 はい。
オイディプース して、何をしていた?
老いた従僕 牧人……
オイディプース して、家畜を連れてどの辺りへ行っていた?
老いた従僕 キタイローン山か、それとも麓の辺りかに、行っていた……
オイディプース 北の方で、おまえはこの男と遇わなかったか?
老いた従僕 何のために?それに誰のことで?
オイディプース ここにいるこの男のことだ。おまえは彼を知らないか?
老いた従僕 思い出そうとしているのだが……どうも見かけたことはなさそうだ……知らない……
老いた使者 彼が思い出さないのも無理はない!ずいぶんと昔のことだ!それでもわたしらは三つの季節を一緒に北のほうで、キタイローン山中で過ごしたものだ、わたしはわたしの群れと、彼は彼の群れと……春から初秋まで……三季節……
老いた従僕 そのとおり、たぶん本当かもしれない……だが昔もむかし大昔のことだ!
老いた使者 思い出さないか、その頃、わたしが山のなかで赤子を見つけて、あんたはあそこにひとりっきりでいた、あの日のことを……
老いた従僕 何?何と言った?またなんでそんなことをおれに聞くんだ?
老いた使者 オイディプース、あんたの〈王〉が、あの日の赤子だよ!
老いた従僕 ああ、止さないか、そんな作り話は……みんな気狂い沙汰だ。
オイディプース (いつもの怒りの衝動についかられて)いや、彼の話がではない、お
まえの話が気狂い沙汰なのだ……おまえはおのれのしていることを弁えよ!
老いた従僕 なぜ、ああ、〈王〉よ、何でわたしを叱るのか?……
オイディプース おまえが訊かれた赤子のことを黙っているから、黙っているからだ……
老いた従僕 でもわたしは何も知らない、何も知らない、何を言わねばならないのか?

 すると、オイディプースは怒りで凄い形相になりながら、彼を殺そうとするかのように詰め寄るが、堪えて、面と向かって怒鳴りつける。

オイディプース ならばおまえは痛い目にあって話すがよい、いいか!いいか!
老いた従僕 わたしは老耄だ、哀れな老耄なのに……
オイディプース 奴を掴まえろ、縛り上げろ、片づけてしまえ!
老いた従僕 (恐怖にわれを忘れて、屈しながら)で、何を、何を知りたいので?
オイディプース その赤子をおまえは山のなかに運んだのか、それとも運ばなかったのか?
老いた従僕 はい、運びました。だから、すぐに死んだのでは……
オイディプース して、その赤子を、おまえは誰から貰ったのだ?おまえの息子だったのか、それとも違うのか?
老いた従僕 わたしのではない……わたしは渡されたんだ……他の人から……
オイディプース して、その他の人というのは誰々だった?
老いた従僕 後生だから、もう訊かないで下され。
オイディプース (再び喚きながら)話すか、それともおまえは死ぬかだ!
老いた従僕 ラーイオスの息子だった……
オイディプース 彼の奴隷のか、それともまさしく息子か?彼が生した?
老いた従僕 ああっ、それは到底口には出来ないことだ!
オイディプース してそれは、われも聴く耳はもたないことだ!だが、聞かねば、聞かねば!
老いた従僕 まさしく彼の息子だった。しかしいまは家に入ってしまったが、あなたの妻イオカステーほどには、何者もよくは知らぬことだ……
オイディプース おまえに赤子を与えたのは彼女なのか?
老いた従僕 そうだ、彼女が赤子をわたしに手渡した。
オイディプース して、どんな命令で?
老いた従僕 殺せよ、と。
オイディプース またなぜそんな非道なことを?
老いた従僕 なぜなら、恐れていたから……不吉な預言を……
オイディプース どんな?
老いた従僕 赤子は両親を殺すだろう……と。
オイディプース じゃ、なぜおまえはこちらの老人が彼を助けるままにしたのか?
老いた従僕 憐れみゆえに。
オイディプース (独り言のように)これで、いまはすべてがはっきりとした。

 相変わらず深ぶかと思いに沈み、うわの空みたいに、おのれが何をしているかも知らぬげに、背を向けると、ついさっきイオカステーがしたのと同じように、王宮の私的な部屋部屋へ、吃りながら入ってゆく。

オイディプース (夢のなかでのように、独り言で)すべてがはっきりとした……宿命
によって、強いられたのではなくて、意図された何もかもが。


                  43 王宮の内部
                  屋内。昼。


 しばらくまえと同じように、オイディプースは宮殿の内部を、その寝所に向けて彷徨い歩く。
 相変わらず夢のなかでのように、ぼんやりと、ゆっくり、不可解なくらいに落着き払って歩いてゆく。
 真実が彼を卒倒させてしまったかのように、彼は苦しむためにさえも正気を取り戻すことが出来ない。もう彼ではなくて、ある記憶喪失が彼を導いてゆく。そして実際彼は場所に見覚えがないかのように辺りを見回す。
 こうして無意識的に彼は寝所に入る。


                    44 寝所
                  屋内。昼。


 敷居を跨ぐやいなやオイディプースはすぐさま見る……
 ……天井の梁に縊れたイオカステーの揺らめく身体を。
 傷ついた野獣みたいに、オイディプースはその身体に飛びかかり、まるで彼女を救おうとする最後の試みであるかのように、彼女にしがみつく。あの光景が彼をその夢から毟りとり、激しい仕草が彼に激しい苦しみを再び齎す。
 しかしあの生命のない身体にしがみつくことで、彼はたった一つのことしか得られない。つまりイオカステーの衣裳を毟りとることになる。
 そして彼女は、 彼の母親は 彼の前にいま一度裸で現われる。
 彼が耐えることが出来ないのは、あの裸体だ。
 激怒した獣みたいに、彼は釦金──幾度となく開けてその花嫁を裸にしたあの釦金──を開けて、毒針をおのれの目に打ち込みながら苦痛の叫び声を上げる。
 滅多刺しにされた両目が、母親の裸体の俤のほうに向けられる。それは始めは形を崩してゆき、やがて不透明なピント外れの映像となって、終いには底知れぬ闇のなかに消えてゆく。

  底知れぬ闇のなかにゆっくりと溶暗。


                  45 王宮前の広場
                  野外。昼。


 民衆や元老たち、みながいる。不幸のあった家の前に犇めく人びと。
 深い無言、待つこと……
 誰もが扉のほうを見る。と、そこから、手探りしながら、足で探りながら、オイディプースが出てくる。
 長く、深い無言が続く。どの眼差しも彼の上に注がれている、その彼は手探りで進んでは、転んで、また立ち上がる。ひとりだけ。
 眼差しのなかには戦慄、嫌悪、憎しみ、皮肉が、いまでは憐れみに勝っている。
 あの長く、悲劇的で戸惑わせる無言を、かぼそい声でついに破るのは、ひとりの元老、憐れみ深い目の年寄だ。

元老 なぜ、なぜそんなことをなさった?

 オイディプースは顎は伸びきり、潰れた蛆みたいに、頭を巡らしながら、その声の主を探す。酷い肉体的苦痛に砕かれた声で、やっと何か言う。

オイディプース こうすればもう悪を見ないで済む……わたしが苦しんだ、仕出かした悪を……闇のなかでは、いまでは、見るべきでないものを見ることはない……わたしが識ろうとしていた人びとを識ることはもうないだろう……

 またも非常に長い沈黙、長すぎる。やがてオイディプースがまた話しだす、繰り返しながら。

オイディプース 耳も切り裂いてしまえばよかったのかもしれない……おのれ自身のなかにこの不幸せな身体をもっとよく閉じ込めてしまうように……そうすれば、もう何も見ず何も聞かない……何ひとつ……悪の外に心を持つことの甘美さよ!

 再び口を噤み、やがて長い沈黙のあとで、無考えに切れぎれに話すかのように、また言いだす。

オイディプース 早く、早くわたしをここから遠ざけてくれ……ぞっとさせるこの男をおまえたちから遠ざけてくれ……

 そしてまた黙りこみ、その底知れぬ夜のなかで言葉たちが形づくられるのを待つ。

オイディプース 不純なことは黙らねばならない……そのことは語らず、証言せぬこと。黙ることだ!わたしを隠してくれ!このわれらの土地からわたしを追い出してくれ!誰にも見られずに済むところにわたしを投げ入れてくれ!
元老 (相変わらずおずおずとかぼそい声で)いまは決めねばならないのはクレオーン
だ……

 オイディプースはその潰れた蛆の頭を巡らす、まるでクレオーンの居場所を探すかのように。そしてあの名前を耳にしたせいで、彼の胸からは長い嘆きのうめき声が洩れでる

クレオーン いや、オイディプースよ、いまはおまえを嘲るつもりはないし、おまえの罪を非難するつもりもない……だが、おまえたち、おまえたちは何をしているのだ?彼を家のなかに連れてゆけ、身内の者たちに預けて、惻隠の情からも、この人のいまの哀れなありさまは彼らだけの目に触れるように……
オイディプース いや、クレオーンよ、いや……その惻隠の情があるならば……わたしをこの町から遠くに追い払ってくれ……わたしを荒寥たる山中に往かせてくれ、わたしの父親と母親が生まれたばかりのわたしを遣ることにしたあの山々に、かつて両親がわたしが死ねばいいと願ったその場所でわたしが死ねるように……

 クレオーンはもう何も言わない。うつむいて黙りこみ、曖昧な眼差しをオイディプースと他のみなに投げかける。
 いままたあの人びとみなのうえに、悲劇的で戸惑わせる無言が降りてくる。誰もが仲間うちで目を交わして、戦慄、侮蔑、皮肉、憐れみの目でオイディプースを眺める。
 オイディプースは手探りで歩きだす、町の外へと通じる道を探しながら、転び、また立ち上がり、黙って、手探りで進む。
 するとそこに使者の少年がいつもの憐れみ深い慎ましい顔つきで彼のほうにやって来る。だが、その手には何かを持っている。それはフルートだ。テイレシアースのそれと同じようなフルートだ。盲た者のもつフルート。事態を掟のなかに戻す、スキャンダルをコード化してゆくフルートだ。
 賤しい仕事に慣れている少年は、まだ生々しいあの傷痕から血を流している、こんなにも酷いありさまになってしまったあの男に近寄ることを恐れない。彼に近寄って、彼にフルートを差し出すが、目の見えぬオイディプースはそれに気づかない。
 すると少年は彼の片手をとって、掌にフルートを載せる。オイディプースの手が、触って、識ろうとする。フルートを握りしめ、少年に支えられながら、彼と一緒に歩いてゆく。
 ふたりは出てゆく──あの不快な過度の沈黙のなかを──しかるに群衆は見知らぬ者を見送るような眼差しで、彼らを追っている。
 オイディプースの歩みは遅々としている。だから立ち去るのに、遠ざかるのにどれほど時間のかかることか。
 長い時間の後、ようやくふたりは、町の外へと通じる街道を往く、後ろ姿の遠くの二人になる。
 ちらと見えるかぎりでは……あの下のほうで……オイディプースがフルートを唇にもってゆく……そして最初の音を出す……そしてそれから第二の音を……そして少年が、後ろから、彼を励ましている……
 そしていまオイディプースが吹く、──盲た乞食、預言者が──なおたどたどしくあどけなく、あるメロディーを、その幼年時代のメロディーを、テイレシアースの神秘的な愛の歌のメロディーを、宿命の前であり後であるあのメロディーを。
 埃だらけの街道の奥に、遠く二人の姿は見えなくなる。


                    46 広場
                  野外。昼。


 歴史と文明の徴のある大きな広場がある。いまだ未完成の赤い石造りの大聖堂、前には、尖頭アーチと大理石の両開き窓の並ぶ荘重なアーケードのある市庁舎、そして横には、狭間胸壁のある、やはり赤石造りだがずっと古い時代の別の宮殿、そして辺りには屋根屋根とアーケードの、赤い家並。
 広場の右側にはアーケードの長い列、金持の家族や公の出来事や昔の散歩の思い出の詰まったアーケードの優雅な連なりがある。
 それはブルジョア階級がその習慣を祝って、その偉大さに思いを凝らす場所のひとつだ。
 こうした古い時代の宮殿と、こうした腐蝕したアーケードの間に、優雅な店々が煌めいて、行き交う市民と交通の猛烈で甘美な往来がある。
 しかしその広場の一角に、日々の平安のなかに赤らんでゆく甘美な太陽の下で、怠惰な人びとと鳩たちの居場所がある。
 オイディプースとその若い導き手は、脇の道からやって来てそこに、暮らしの渦巻きの埒外の、いくらか外れたその場所に着く。
 オイディプースは腰を下ろして、髪は長く伸びて手入れをしない髭は埃まみれの老いた乞食や預言者のなりで、そのフルートを吹き鳴らす。
 メロディーはブルジョアのイタリア統一運動か(それとも革命運動か?)の、自由のための闘いの歌のメロディーだ。
 一吹きのあのメロディーにつれて、そこの周囲の何もかもが、その的確で感動的な意味を獲得する。何もかもがたちまちひとつの思い出みたいになって、その日常性と一緒にその叙事性をまた見出す。
 本を抱えて通り過ぎる学生たち。アーケードに沿って、美しい町の少女たち。赤ん坊を腕に抱えた母親、あの午後とあの朝の貫祿に溢れる、暮らし向きのよい母親。
 子供たちが一団となって通りかかり、オイディプースのまわりに輪になって、いくらか彼に驚くが、逃げ出す前に少しだけ彼をからかってゆく。

子供たち 〈脹れ足〉!〈脹れ足〉!〈脹れ足〉!

 大聖堂を写真にとる観光客たち。
 光と影のカットのなかに、怠けている憲兵たち。
 人類がその怠惰と息切れと一緒に、その宿命的な歩みをまた見出す何千時間ものうちの一時間である時の出来事、仕草、足取り、眼差したち。
 使者である少年は、ぼんやりして、何の心配もなげに、鳩たちと戯れて、驚かしては、飛び立たせている。
 そしてその間もオイディプースはそのフルートにあのメロディーをそっと吹き込む、するとその調べが、彼のまわりのすべての事物に、歴史のあの甘美なざわめきに、意味を与える。
 やがて、突然、吹くのを止める、まるである思考によって、直ちに息を切らせながら実現せねばならないある考えによって、呼び戻されたかのように。彼は手探りで進みながら、せっかちにじれったがってその案内役を探す。
 少年が傍らに来ると、彼は少年を押して別の裏通りへと進む──彼の内奥の、遙かな呼び声が彼を導くかのように──どこへか、慌しく、彼らは姿を消す……


                  47 郊外の工場街
                  野外。昼。


 巨大で、平たく、軽い、工場という工場が北国の晴れた朝のくすんだ地平線全部を占めている。
 そこはハイウエーが分岐している場所で、青い霧のなかをほとんど音もなく走りすぎる車の川を、陸橋が軽快に跳び越している。
 しかし、その不明瞭な必要に従う輪郭とともに、それゆえ古い時代の教会の簡素さを有しているいくつもの工場の存在によって、すべてが支配されている。非対称の塀やどれもこれも同じ円筒状建物の執拗な連なりの藤色、灰色、スフマート、眩い白が、同じ色をした空を背に建っている。
 こうした完成された一角に何かなお渾沌とした鄙びたもの、そこばくの生け垣のある牧場の残りがあって、その後ろには、石炭の巨大な山があって、ぼやけた空に黒ぐろと煌めいている。
 あそこに、工員たちが工場へ行きながら通るあの場所に、オイディプースと彼を導く少年が向かっている。
 彼らはそこに腰を下ろす。そしてオイディプースがそのフルートに息を吹き込む。
 こんどはメロディーは民衆の蜂起、パルチザン闘争の歌のメロディーだ。するとそれが、不可解にも感動的なことに、辺りのものすべてにひとつの意味を与えるように見える。労働者たちの通過に、遠く近くの交通に、あの遠いバス停でバスを待つ民衆の人びとの群れに。
 少年たちが牧場でサッカーをして遊んでいる。オイディプースの少年=使者は、あの民衆的な時に、お道化て陽気に、彼らと遊びにゆく。
 オイディプースはそのフルートで、こうしたことの意味であるあの曲を吹くことに夢中で、われを忘れている。

  溶暗。


                48  サチーレの郊外
                  野外。昼。


 オイディプースと彼を導く少年は、いまは故郷の白い質素な街道にやって来る。真昼時を、黙って歩いてゆく。
 するとこうして、たちまち、昔のぬぐい去りがたい俤が甦ってくる。
 一筋の街道と一軒の家……
 野辺は家並の裏手すぐにまで迫っている……
 しかしプチブルたちの、慎ましい家並だ…… 蔓棚に、雨樋、玄関には小さな軒縁。この後背地を何世紀にもわたって支配した海の都市の貴族の痕跡だ。
 小学校の子供がふたり、兵隊がひとり、通る……あのときと同じ兵隊に見える、たとえ軍服は一九三〇年代の灰緑色ではなくて、六〇年代のカーキ色だとしても……
 いまはオイディプースと少年は町を外れたばかりの街道を歩みゆく、町は彼らの背後で昔ながらの白い塊になってゆく。
 そしてここに……
 ほら、ここに麦打ち場の真ん中に小麦のある昔ながらの田舎家がある。
 そして一頭立て二輪馬車……それに行ったり来たりする犬……見知らぬ人たちなのに、切に身近に感じる人びとが、雌鶏たちのあいだに……
 いまは街道は爽やかだがいくらか緑の薄くなった高台の縁を走り……近くにはたぶん、鉄道が通っていて──世界のその一角の疎らな通行人──農夫たちがいて、電動椅子に乗った小児麻痺の……曰くありげな青白い顔をした男──見知らぬものとなったあの土地の証人が、過ぎてゆく。
 オイディプースはあの街道を歩いてゆく。すると、ほら下に、ある日、赤ん坊のまわりで、少女たちが走り回って、陽気に叫び交わしていた広い牧場が広がっている……
 オイディプースは少し立ち止まり、やがて、その渇望の激しさによってまたも押しやられるかのように、下のほうへ、牧場づたいに導かれてゆく……ずうっと奥のリヴェーンツァ川の青々とした水面まで……
 そしてここで立ち止まる。おのれの闇のなかで、彼が探し求めてきたものは、何もかもここにあったのだろうか?
 鄙びた、野性の、銀色の柳の濃い茂みが、ゆっくりと流れゆく水面にその枝々を這わせているあの至高の一角だ。
 オイディプースの眸が初めて母親を見分けてそれと識ったあの場所だ。
 軽やかな、古い時代の、言うに言われぬ風によって生気を与えられた、こうした俤の上に、いきなり音楽が爆発する。そのモチーフからはたちまち動顛させる意味が引き出される──反復、回帰が──時の虚しく移ろうなかで原型となる不動性が──幼年時代の神秘的な音楽が──預言的な愛の歌が──それは宿命の前であり後である──あらゆる物事の源である歌が響きわたる。