2009年1月14日水曜日

パゾリーニによるオイディプース王(26から33)

       26 テーバイに向かう街道(隘路)野外。昼。

 街道はひどく狭い、一方は岩壁、他方は川へと落ちこむ絶壁だ。
 街道の幅いっぱいに走る大きな馬車のドアから、年配だがなお強くて乱暴な男の頭が突き出ている。オイディプースの父親だ。
 五人の兵士と馭者を務める下男が彼を護送してゆく。
 下男は赤子のオイディプースをキタイローン山で死ぬように運んだあの張本人だ。
 オイディプースは小径みたいに狭い街道の真ん中を歩いてくる。
 馬車が進む。オイディプースが進む。
 オイディプースの父親とオイディプースは、相手がどうするか見ようと待って長いあいだ見つめあう。不条理な、底知れぬ憎しみがたちまち彼らの顔だちを歪めてゆく。そこには何か非人間的でヒステリックなものがある。
 それはおのれの尊厳が問われるのではないかと、不条理の理由ゆえに、男たちが恐れるときに、互いに彼らを野性に押しやりあう何かだ。譲らぬことが匿された復讐の、知られざる古の感情の捌け口となるときに。
 疵つけられる虞れのあるおのれの尊厳を最後の血の一滴まで守り抜く、道を一歩も譲らぬ固い意志を秘めてオイディプースは進みゆく。それともたぶん、相手の優しいひと言、譲りたまえという礼儀を弁えた誘いだけを待っていたのかもしれない。
 しかし相手は猛り狂っている。
 だからそんなことは起らない。起らない、なぜならあの男は父親だから。

父親 乞食め、道を空けろ!

 オイディプースは答えない。小径の真ん中に足を踏ん張って仁王立ちし、流浪の若者が遍歴の騎士たちがするように下から上に睨めつける。
 その眼差しは挑戦としては中立だし、挑発の色もなおも彼がおのれに許した忍耐によって消されている。街道の真ん中で、生気のない瞳の、大股の辛抱強い待機。

父親(喚きながら)乞食め、道を空けろ!

 ぱっと気が狂ったみたいにオイディプースは屈むと、大きな石を掴んでそれを父親めがけて投げつける。石は父親の額を撃ち、血が出て血は両目に流れこむ。
 たちまち前衛の二人の兵士が剣を抜いたオイディプースに襲いかかる。後衛のほかの二人の兵士は道いっぱいに塞いでいる馬車の前に出るために、ひとりはオーバーハングの絶壁を攀じ登らねばならず、あとひとりは馬車にしがみつきながら、渓谷の縁づたいにゆっくりと前へ出ねばならない。
〈王〉は泣きわめきながら、血を両手で拭う。
 オイディプースは最初のふたりの兵士と闘う。兵士たちは長槍を手にしているが、接近戦では邪魔になるばかりだ。ふたりともまだ髭の生えないオイディプースよりもさらに若い少年だ。ひとりはたちまち手傷を負って、泣きながら倒れこむ。
 もうひとりもしばらくすると、仲間の身体の上に倒れこむ。
 怒りに盲て逆上したオイディプースは、傷を負った兵士の頭を切り裂いてとどめを刺す。
 死んでしまって、ふたりの兵士はいっそう少年らしく見える。
 彼らの無垢はすっかりそこ、埃の上に、血に塗れている。
 ほかのふたりの兵士もやって来たが、同時にではない。馬車にしがみつきながら、川に突き出た狭い絶壁づたいに前に出た兵士がまず来る。
 彼の態勢が整うより早く──拳に握りしめた長槍に邪魔されてもたついて──狭い断崖の縁の上でまだ馬車にしがみついているあいだに──オイディプースは鬼女みたいに襲いかかる。
 兵士は身を守ることが出来ない。オイディプースは何度も彼を打つ。兵士は馬車の車輪の下に倒れこむ。そこへ四人目の兵士が岩壁の高みから不意に降り立つ。
 父親は血塗れになりながら、泣き、喚く。
 オイディプースは四人目の兵士と戦う。そしてまもなく、若くて無垢なこの兵士も埃のなかに倒れこむ。
 するとオイディプースは馬車の上に登って、血を流している父親に襲いかかる。馬車の馭者は恐れ戦いて、飛び下りると、小径づたいに逃げ出す。
 父親は彼も、剣を抜き放つ。しかし馬車のなかでは悪夢のなかの隘路にも似て、動きがとれない。
 オイディプースは彼の上にいる。そして血を滴らせながら突き出ているあの頭を、斧を打ち下ろすみたいに剣を何度も叩きつけて砕く。
 馬たちは馭者なしに狂って、地面を蹴りたて走り出すが、狭い小径が万力みたいに馬車を締め上げ、馬たちは傷ついて倒れる。
 死んだ四人の少年たち、死んだ父親。殺戮の上に午後と荒れ野の静けさがまた下りてくる。
 オイディプースはおのれが夢のなかでのように成したことすべてを眺める。
 下男はあの下のほうを長い小径をずうっと走っていって、川へと下る脇道を見つけ、椰子林のなかの草むらに、追われて狂った獣みたいに逃げ込む。
 草むらは彼を受け入れ、野性の沈黙によって保護されたかのように、彼はそこに姿を消す。
 永遠の夏のあの沈黙全体のなかに、物音ひとつ、ひと吹きの風も、鳥の囀りひとつ聞えない。
 草むらの陰で、泥濘の上にうずくまって、声もなくしゃくりあげて身体を震わせているのは、身じろぎもままならない下男だ。彼は戦きながら肩の上の首を捩って、頬骨の上の盲た狡い目をじっと注いで、おのれの後ろを振り返る。

 
       27 テーバイ付近の野辺 野外。昼。

 大群衆が無言のまま荷車で、馬で、徒歩で進みゆく。
 集団移住か?移民か?
 大いなる静けさのなかに荷車が軋り、埃のなかに足音が漏れ、どこかで赤子が泣く。
 やがてひとつの声が上がって歌いだす。民衆の苦しみを歌う女の声だ。フルートの悲しい調べがあとに続く、その曳きずる歌詞はあの土地、あの時に起きたことと同じように難民たちの苦しみを物語り、あれが亡命の道すがらであることを告げている。
 苦しみの街道に沿って荷車は揺れ、人びとの足音が聞え、何人か赤子の泣き声がする。
 街道は下のほうに、灼けた平野に沿って、岩々と小さな麦畑のあいだを往き、夏の遠い煙のなかに消えてゆく。そこには海か、湖か、それとも何か青くて死んだものがあって、たぶん影の町が在るのかもしれない。
 オイディプースはあの黙りこくって移住してゆく群衆みなとは反対の方向に歩みゆく。
 その不可解な意図ゆえに、そのまえでは忍従するほかはない宿命的な決心ゆえにあの人たちみなが慌てもせずに逃げ出してきたその土地めざして、彼は長いあいだ歩く。
 すると見よ、ついに死の夏の青い大気のなかに群島みたいに、岩々と小さな丘々の人里離れた土地、広い空き地がある。
 そこに群衆が野営している。きっと住民の一部だけが逃げる決心がついたのだ。あとの一部はここ町外れに、疎開者たちのテント暮らしの混乱と惨めさのなかにいる。
 無自覚な悪童たちの群れが辺りをうろついている。何人かの商人が他人の混乱振りを良いことにいくつかテントを張って、食べ物や飲み物を売っている。祭のときや聖堂近くと同じように、乞食たちさえいる。そしてオイディプースの年頃の若い男たちのグループもいて自分たちだけで固まっている、彼らの若々しさが幸運な別の種族を意味するかのように。
 オイディプースはひとりの幼い少年ではもうないが、だからといってまだ彼らみたいな若者でもない、それでもその無邪気さのなかに狡さや確実さも見える、おのれの暮す土地そのものから出てきて、それを眸に、精神に宿している者に向かって言う。

オイディプース おおい、少年よ、何が起きたのか? この辺りでは何が起きたのだ! なぜこの人たちはみなおのれの町から出てゆくのか、あるいはなぜジプシーの族でもあるかのようにここにテント暮らしをしているのか? ああ、おまえも知らないのか?
少年 どうしておいらが知らないのさ?(得意になって)おいらはメッセンジャーだ、ニュースを運ぶのはこのおいらぜ! 知らなければそいつはほんとに素敵だったろうに!
オイディプース で、だから?
少年 おいらと一緒においで、おいでよ……

 少年は確かにたちまち共感か敬意を、あるいはとにかく「何か特別なもの」をよそ者に対して覚えた。あるいはたぶん、小遣い稼ぎがしたかったのかもしれない。さもなければ単に事の次第を知っていることを誇りたかっただけなのか。要するに見るまに彼らは野営地を横切ってとおり越す。人けのない道をしばらくのあいだ歩いてゆく。
 避難民たちの野営地を後にするとたちまち、不自然な大いなる沈黙が野辺を圧する。見捨てられた野辺だ。動物たちの骸骨や、太陽の下で錆ついた農具や、雑草に覆われた小さな井戸がある。眼窩みたいに空いた窓辺の、半ば崩れ落ちた家々。
 そしてここに、そんな土地に、不条理にもフルートの調べが大気中を彷徨いだす。
 オイディプースは彼を見つめる少年の瞳の奥を覗きこむ、知っているのに黙っている。あの調べに導かれるようにして、彼らはなおも歩みゆく。そうして大地を空から分つ土手の裏手に着く、その手前はあの荒れ果てた野辺だ。
 太陽しかない。
 だが、野性の二つの草むらのあいだにしゃがみこんで、ここに一人の男がいる。童顔に齢の徴された、重々しく太った年寄りだ。けれども瞳は、フルートの悲しくしめやかな音色を追ってはいない。
 瞳は動かずに、まるで絵に画いたように宙に止まったままだ。盲だ。
 オイディプースは、動顛して彼を見つめる。
 おのれの宿命によって記された長い道筋をたどる長い旅をとおして、これほど深ぶかと不可解にも彼を茫然とさせたものは、ひとつもなかった。なぜ?
 たぶん、おのれの宿命を成就させたのちに彼を待つもののための、彼の宿命の新たな徴なのかもしれない。彼は少年の目を覗きこむ。少年が彼を見つめ返して、聖なる敬意に溢れ、脅えて囁く。

少年 預言者の、テイレシアースだよ。

 オイディプースが数歩彼に近づくと、テイレシアースはそれを聞きつける。悲しみの調べを中断する。
 ふたりは互いに向きあう。オイディプースは少年の眸で、テイレシアースは盲の瞳で。彼らが互いに言うべきことすべては、長い無言にほかならない。やがてテイレシアースがまたフルートを吹きだす。フルートの調べが高く清らかに鳴り渡る。その苦しみは世界の苦しみである。
 再び奏でられだしたフルートの最初の調べに、オイディプースの目は見る見る涙に溢れる。どうしても堪えきれずに、わっと泣き出す、恐ろしく同時に測り知れぬ慰めとなる泣き声に彼は身体を震わせる。
 跪き、まるで聖なる儀式の調べであるかのようにあの神秘的なメッセージに耳を傾けている。
オイディプースの内なる声 歌っている、だがおのれのことを歌っているのではない。何者かが彼に歌う責務を与えた、彼は盲だ、盲なのに何者かは彼に見る責務を与えた、彼の町のこの数日、数夜を見る…… 彼が歌うのは他人のためにだ、彼が歌うのは他人のことだ、彼が歌うのはぼくのためだ、彼が歌うのはぼくのことだ。彼はぼくのことを知っている、だからぼくに歌いかけている!〈詩人〉だ! きみ、詩人よ、他人の苦しみを掴まえてあたかもおのれ自身の苦しみであるかのように表現するきみの責務をもって、表現する…… 宿命は宿命が取っておいたことよりも先まで続く。ぼくはおのれの宿命の彼方にあることに耳を澄ませる。
 少年がオイディプースに身体を寄せてその服を引っ張って、まるで教会のなかにいるかのように無言で、往こう、と合図する。
 オイディプースは、夢のなかでのように、戸惑って彼を眺める。やがて立ち上がると、目にはなお涙を湛えたまま、彼のあとに続く。
 黙って歩みゆく。彼らが遠ざかるにつれて、預言者のフルートの調べは消えてゆく。
 いまは彼らはなおいっそう悲しく野性の土地を歩みゆく。
 とうとうとある狭い高台の頂きに着く。
 そこからは町が見渡せる、そして町の手前、荒れ果てた野辺の少年の指さすところに、見よ、あらゆる人間の経験の埒外に、信じがたくも、思いがけないものがいる。とある岩の上にじっと動かずに──たぶん、半ばまどろんで──ライオンの身体をしているくせにその頭は女の頭をしている獣がいる。少なくともそのように見える。だが遠く離れているだけに、たぶんあれは夢なのかもしれない。

少年 ほらあれがぼくらの町の禍だ……どこからとも知れず、彼女はここに来た……まさしくここに、来てしまった……ぼくらは、あんなにも良い暮しぶりだったのに! こんなことになるなんて誰にも想像もつかなかったことだろう。彼女がここに居すわり、何もかも終ってしまった。何をするわけでもない、あそこにいてとてもおとなしくしているよ。ただいくつか質問をするんだ。けれども答えられない者は死ぬ。だから誰かが彼女に答えられるまでは、彼女はここに居つづけ、質問しつづけることだろう。こうしてぼくらの町はお仕舞いだ。誰もかもが行ってしまう。それに残ったところでここでいったい何ができるだろう?

 オイディプースはみなまで聞かず、早くもスピンクスめがけて歩きだす……
 驚いた少年はしばらく彼のあとを追いながら、衣服の裾を引いては往かぬように説き伏せようとする。

少年 行かないで、行かないで、無駄だよ、死んでしまうよ、大勢試してはみたんだ……戻ってよ……

 見よ、ここが酷いあの谷だ。太陽の光に白々とたくさん骸骨が転がっている。
 ほらそこに頭蓋骨がある。眼窩から一本の黄色いエニシダが生え出ている。
 ほらここにあるのは胸郭だ。二匹の蜥蜴が肋骨のあいだを走りながら、小さな頭を曰くありげに動かしている。
 魂消た少年は駆け戻って、再び丘の頂きに取りつくと、そこから見守っている。
 見よ、オイディプースがあの下のほうで進みに進んで〈獣〉のまえに立ち止まる。ほら、彼らが話している。
 お互いに相手の前にじっと動かずにいる。
 何分間か過ぎたのに、二人とも動こうとしない。互いに向き合って話している。何を言っているのか?
 少年は目を覆う。しばらくのあいだそうしている。
 やがて好奇心には逆らえずに、少しずつ手を退けて、見る……
 ……オイディプースが尾を掴んで〈獣〉の屍を曳きずっている。岩の下へと苦労しながら曳きずっている、まるでおのれの勝利の戦利品を曳きずるかのように。
 少年はわれとわが目を信じない。あそこで、滑稽に、眺めつづける。やがて喜びが爆発し、気狂いみたいに叫び立て踊り回りはじめる。ぐるぐる旋回し、喜びの舞踏、一曲のタランテッラ踊りを即興で舞う。両手、両腕を揺り動かしながら、叫び、笑う。
 下のほうで、疎開者たちの誰かが、彼を見て、興味を覚える。
 だんだんに小さな人だかりが出来て、ますます大きくなり、少年が喜びの舞踏を舞う小さな丘のほうへと往く。
 少年はにわかに真っ逆さまに丘を駈け降りると、町めざして全速力で走る。そら、番兵もいない城門の前だ、そら、崩れかけた赤い家並と手のこんだずんぐりした塔を取り巻く赤い城壁のなかに入る。
 その間にも疎開者たちがオイディプースのまわりに集って、彼を眺める者もあればスピンクスをしげしげと見る者もある。それはそのときまでは町の恐怖、地獄の現身の姿であったのに、いまは屠殺された獣みたいに埃のなかの哀れな死骸にすぎない。
 そしてさっき使者が踊ったように、最も若い男たちが踊る。
 女たちは泣いて抱きあい、男どもはオイディプースのまわりに犇きあって英雄を見るように彼を眺める。
 そして見よ、あの下のほう、町の城門から新たな群衆が馬や馬車や兵隊や風にはためく旗とともに押し出してくる。使者である少年がみなの先頭切って走りつき、オイディプースの手を取りに駆け寄る。そして彼を到着する新たな群衆のほうへと引っ張ってゆく。喧噪、歓声、笑い声、音楽の真っ直中で辛うじて彼の声が聞き取れる。

少年 来て……クレオーンのもとに来て……〈王妃〉のもとに……スピンクスを打ち負かした者は〈王妃〉の花婿となる……知らなかったの? きみは〈王〉になるんだよ! ……来て……

 二つの群衆が、二つの奔流みたいに出会う。そこから猛烈な大渋滞が生ずる。少女たちがオイディプースに花の冠を被せる。若者たちが彼を肩に乗せて、町めざして凱旋してゆく。
 そしてここに最後に到着するのが、高貴なカーテン(イドリアの刺繍)で目映いばかりに白い肩輿に乗った〈王妃〉イオカステー、オイディプースの母親である。
 彼女は忽然と姿を現す。韃靼人みたいな目の、残酷で甘美な顔、そして白い衣裳の下の真っ白く膨らんだ乳房。
 オイディプースは凱旋の肩車に乗って運ばれながら、辛うじて彼女を垣間見る。ほんの一瞬のことだ。が、彼の眼差しは彼女の上に止まる。親密な淫らな束の間の表情がその眼差し、つまり白い乳房への眼差しに籠められている。
 しかし不純で無邪気に貪欲なそんな一瞬の凝視もたちまちアクションに呑み込まれてしまう。
 オイディプースは〈王妃〉とクレオーンのまえに下ろされた。そして彼は二人に敬意を表し、跪いて彼女の手にキッスする。
 いまでは〈王妃〉と交わす眼差しにおいても、彼はおのれの感情を自制する。偽善的な無邪気な尊敬をこめて彼女を見つめる。
 けれどもすぐに人びとが彼を取り戻す、みな喜びの立役者をほってはおけないのだ。
 彼をまた背中に乗せて、凱旋行列にくり出す。
 音楽が鳴り響き、旗という旗がはためく。テーバイの全住民がその〈王妃〉と彼らの新たな英雄を取り囲む。
 みなうち揃って町の城門へと赴く。


        28 テーバイの王宮(寝所)屋内。夜。

 あの遙かに遠いサチーレの夜──ほとんど別世界の夜──と同じような夜だ。そして窓の外には夜空と野辺、押し寄せてくる、行き場のない蟋蟀と雨蛙たちの鳴き声と一緒に、蒸し暑さによって磨かれて、ずっと近くに見えるくらいに光り輝く月。そしてなかには新婚の間、清められた愛のための大きなベッド。そのカバーが眩く白く、窓辺に引かれた──刺繍入りの──カーテンも白々と輝く。花嫁花婿はいないが、ベッドが彼らを待っているように見えるし、夏の夜の虫たちも彼らのために歌っているように思えて、大きな月も彼らのために明るく照らしているように見える。


       29 テーバイの町中 野外。夜。

 祭は終わろうとしている、もう夜も更けたから。けれども人びとは飽くことを知らない。あの夜が決して終らなければよかったのだろう。だから通りという通りや、埃っぽいどの小広場にもまだ大勢の人たちが夜更かししている。こちらには楽器を奏でている男がいる。あちらにはひと群れの少女たちが踊っている。そして少年たちの群れなら到る処にいるし、酔っぱらった年寄りに、燃え盛るかがり火。
 使者=少年は同じ年頃の仲間の一団と、何か禁じられたことでもやらかす様子で、無花果の樹に攀じ登り、塀に登って、無言で、とある家の屋根の上に着き、ひそひそと短い言葉を交わすばかりで、溢れんばかりの不法な喜びに浸りきっている。
 高みに着くと、彼らは他の家々よりもずっと大きくてずっと高い家、つまり王の家を眺める。
 仲間の一人が、窓辺のほうに目を凝らして、他の仲間を振り返ると、あのなかでよそ者の英雄オイディプースと美しい〈王妃〉のあいだできっと起っていることか、それとも起ろうとしていることかを仄めかしながら、無邪気にも卑猥な仕種をする。


       30 テーバイの王宮(寝所)屋内。夜。

 その窓がテーバイの家並みの屋根と野辺と月に面している部屋、その部屋の平安のなかに、新婚のふたりが入ってくる。
 まずイオカステーが、まだ婚礼の衣裳を身に纏ったままで、そしてその後から、オイディプースが〈王〉の冠とマントをつけて入ってくる。
 ふたりは入ってきて、互いの目を見つめあう。彼らが結婚したのは他人の意志ゆえだが、この意志の背後には、彼ら自身の唐突な、そして不純なくらいの意志があった。
 彼らが互いに交わしあう眼差しが、そのことを暴露している。それは共犯者同士の眼差しだ。彼らの愛はすべてが肉体にあり、精神はそのことで動顛しきっている。
 見つめあいながら裸になる。彼らが互いにその裸体を相手にゆっくりと晒すのはそのときが初めてだ、それは親密さの初めてのときである。
 外では大いなる夏の協奏曲が鎮まり、月の光が厳しさを増す。いまはオイディプースは〈王〉である花婿のその権利において裸だ。そして花嫁を眺める。彼女は被り物を取り、髪を解いて、両脚は露わだがなお軽やかな薄絹を纏っていて、片方の肩のうえで大きな黄金の止め金で、毒針みたいに長くて鋭い釦金で纏めてある。
 そうして彼女はベッドの端に腰を下ろしている。けれどもその恥じらいは処女の戦くばかりの恥じらいではない。彼女はとうに母親だったのだ。
 彼女は母親だ。たぶんそれは偽りの恥じらい、究極の淫らなくらいの媚態だろうか? それともうち勝てない女らしい慎みだろうか? 邪に近い皮肉な眼差しがとっくに愛の仕度の出来たオイディプースの目に宿る。そしてほとんど荒々しいくらいに彼は女に近寄り、毒針みたいに大きくて尖った襟止めを外す。薄絹は女の足下に落ちる。
 オイディプースは相変らず手早く乱暴に獣みたいに女を掴んでベッドに身体を広げさせようとするが、そのとき何かが彼を押し止める。
 彼はほんの少し彼女から身体を離して、彼女を見つめ、おのれの母親にじっと目を凝らす。
 遙か遠くで音楽が夜の無言にわき起り、まもなく消えてゆく。それはテイレシアースのフルートの古のモチーフだ、その調べは宿命の図面のなかになお──それでも、不可解に、母親までも……画き入れようとするかのように響きわたる。
 ゆっくりと、優しく、もう主の獣染みた乱暴さではなくて、愛する男の戦きをもってオイディプースはおのれの母親に近寄り、彼女のうえに身体を伸ばす。


       31 テーバイの地 野外。昼。

 テーバイにペスト。ペストは結局、狂った太陽にも似て、死を撒き散らすペスト、喚かせるペスト、虚ろにさせるペスト、ペスト……
 苦しい息遣いの年寄り、死んだ赤子たちが埃のなかに見捨てられた巨大な隔離病院、そこにあるのはペストばかり……
 野辺には、ペスト……
 町の中心部や、荒れ野で、ペスト……
 暗い窓辺の、家々のなかで、ペスト……
 ある者は路上で往き倒れ、そのままそこに、見開いた目に膿に覆われた膿疱、むかつくような死者となり、ある者はほかの半死人たちに抱えられ、移されてゆき、その後にも苦痛を訴えるほかの瀬死の人たちが続く……
  葬送の歌声。
 人けのない通りを往くいくつもの葬式の行列。
 町外れでの埋葬、どの石もみなそれぞれが一つの墓だ。
 赤く焼けた地平線まで果てしない墓石の群れ。


       32 王宮前の広場 野外。昼。

 小さな脅えた群衆が、王宮へ進みゆく。彼らを率いる、町の長老たちや司祭もいる。彼らはゆっくりと進む。〈王〉に助けを求めにきた民衆の示威運動だ。
 羊毛の繃帯で包んだオリーヴの葉枝を手にしている。ほとんど男たちばかりだ。無言で進みゆく。
 王宮前の中庭みたいに狭い小広場につくと立ち止まり、輪になって城門のほうを眺める。城門はまもなく開くことだろうが、その間にも彼らの顔々とその嘆願者の葉枝が垣根をなす静けさのなかに、葬送歌の哀しい調べが流れこむ。
 宮殿の扉が開かれ、そこからオイディプースが出てくる。
 彼はもう僥倖を夢みる青年〈幸運の子〉ではない。栄光においても苦しみにおいても彼は〈王〉なのだ。奇妙に成熟した顔のまわりを髭が縁取っているし、頭に被った実に丈高の冠が──塔みたいに高い──〈王〉としてのその権威に預言者的、魔術的な大いさを添えている。
 彼は戸口のまえに出て、彼を群衆よりも高みに保つ二、三段の階段のうえに立つ。そこが審問の場だ。
 そこから彼は深い悲しみに見舞われ、黙って、その深い悲しみに見舞われた臣下たちを眺める。やがて口を開く。

オイディプース 話すがよい、おのれに出来ることは何でもするために、われはここにいる。
祭司 われら、これらの子らとわたしがここにいて、おまえの竈近くでおまえに願うのは、確かにおまえを神ともわれらが思うからではない。
 われらはおまえを、人生の辛い局面における、また宿命によって定められた局面における、ただわれらすべての第一人者とだけ評価している。われらの国に達するやいなや、スピンクスの悪夢からわれらを解き放ってくれたのはおまえではなかったか? そしておまえがこの功業をなし遂げたのは、おまえがわれらよりも多くを知っていたからではなくて、みなも言うように、おまえがわれらのために再び命を与えてくれたある神の助けによってなのだ。だから、オイディプース、われらの〈王〉よ、われら一同跪いておまえに願う。われらに救済を見つけてくれ、それがいかなるものであろうと、それをすすめるのが神であろうと、われらと同じ人間であろうと、構わない……おまえは、われらのなかで最良の者なのだから、われらに再び生命を与えよ!思え、かつての日におまえが成したことゆえに、テーバイはおまえを救世主と呼ぶ。だがおまえの王国の記憶がわれらのうちに生々しく残らぬようにせよ、一度は救われたが再び陥れられた治世として!
オイディプース おまえたちがここにもたらした望みを、真にわれは知らないわけではない……不幸なるわが町の者たちよ……どれほどみなが苦しんでいるか、われは知りすぎるくらいによく知っている……だが何者もわれよりは苦しんではいない、なぜならおまえたちの苦しみは、おまえたちのうちの一人に関わるもので、他の者には関わらない。ところがわれの苦しみは、われとおまえたち、みなの苦しみであるのだから。

 彼は無言の集まりに目を凝らす。しかし誰もが嘆願者の目で彼を見ているわけではない。それどころか、とくに最も若い男たちは注意深く険しいくらいの目で彼を睨んでいる。まるで彼によって助けられるのが彼らの権利でもあるかのように。そしてすべての者よりも権力を持ちながら、彼らを助けられぬ男への憎しみすらそこには感じられる。

オイディプース ここに来て、おまえたちはわれを眠りから揺り起したわけではない……眠ってはいなかったぞ、われは。涙を流していたのだ、そうしておのれの思考のなかに千もの脱出路を探っていたのだ。
 それにたった一つ解決策はあった。そして真にそれに縋ったのだ。わが義弟クレオーンをわれはアポローンの神託所へ送った。彼の言葉によってわれが何を成すべきか知るためだ。さて、クレオーンが発った日より過ぎた日数を数えては、われは不安になる。何をしているのだ? 彼は想像しうる以上に遅れている……なぜまだここにいないのか?
 待つことの苦しみが〈王〉の渋面の下にあどけなく現われる。彼はもう父親ではなくて、動顛した息子だ。

  溶暗


       33 同じ場所。しばらく後 野外。昼。

 一時間か、一日か、それとも数日間かが経った。王宮前の汗を垂らした同じわずかな人だかりの上に、太陽が和らげられない光を降りそそぐ。
 まるで悪夢のようにどの通りからも葬送歌が響きわたる。
  葬送歌
 使者の少年が、目抜き通りを走って、到着する。広場の沈黙のなかに止まる。躊躇うように辺りを見回し、遠くからこちらを斜交いに眺めているオイディプースにはあえて向かわずに、やがて司祭に近寄ると、かぼそい声で、囁く。

使者=少年 クレオーンが到着する。

 司祭と、つれて他の人たちも、無言の脅えたわずかな群衆の占める広場の向こう、街道の奥のほうを見やる。
 すると見よ、実際、ひとりの男が進みくる。その足取りは軽く溌剌として、何か喜ばしいことを告げたい者のようで、そんな気分を徴すかのように手を揺り動かしている……

オイディプース(おのれのうちで、素朴に緊張して) 神よ、救いのさだめを齎すか! 彼の目が輝いている……
司祭 満足げに見える……すっかり月桂冠を戴いて……
オイディプース(まだ遠くのクレオーンに聞こえるように、大声をたてて)クレオーン! わが義弟よ! 息子よ! 神託所からいかなる神意を持ち帰るか?

 クレオーンは進みつづけながら、彼も大声で答える。

クレオーン 吉だ! 吉だ! どんなに酷いことでも、終わり良ければ吉だ!
オイディプース だが、神意は、神意は……われらの知りたいのは神意だ……

 クレオーンはいまは小広場の真ん中、オイディプースの前に着く。

クレオーン どうする? ここ、みなの前できみに神意を告げるか、それとも差しで、宮殿のなかでか……
オイディプース いいや、ここ、ここで、みなの前でだ。われが苦しんでいるのは、おのれの人生のためよりは、むしろ彼らのためなのだから。
クレオーン さて、ぼくが神から伺ったことなのだが。テーバイを汚染している感染源をきっぱりと断ち切らねばならぬ。つまり希望なく汚染されたひとりの人間は、もうテーバイには暮していてはならない。
オイディプース するとどのような、何を告発して、何を罰するのか?
クレオーン 彼は流刑か、それとも死をもって、殺人の罪を贖わねばならない。その殺人で流された血のせいで、いまわれらに起っていること一切がある。
オイディプース して殺されたのは、いったい誰なのだ?
クレオーン おまえのまえに、この地の〈王〉はラーイオスだった……
オイディプース それは知っている、聞いたことがあるぞ……われは彼を識ることはなかったが……
クレオーン 被害者は彼だ。そして神はその暗殺者が罰せられることをお望みだ、たとえそれが誰であろうと……
オイディプース だが、誰なのだ? どうして見つけだすのか、その暗殺者を?どこに探すのか、そんなにも昔の犯罪の手掛かりを?

 クレオーンは彼を見つめる、まず彼自身にしてからが〈神〉の託宣の素朴さに唖然としてしまった。

クレオーン  ここで、と神は告げた。

 辺りに深ぶかと曖昧な無言を生じたのはこの「ここで」という言葉だ。
 このときには、まるで奇蹟のように不意に、葬送歌さえも、止んでしまった。

クレオーン ここで。そして神はこうも告げた。知らねばならぬことは、在る。知らなくてよいことは、無い。
オイディプース しかしラーイオスは、王宮でか、野辺でか、それとも異国でか、殺されたのは?
クレオーン 彼もまた、アポローンの神託所へ赴くために発ったのだった。しかしそれっきり帰っては来なかった……

 オイディプースは注意深く精神を集中する、心を決めておのれの意図に従い始める者にも似て。つまり取調べを始める。

オイディプース 護衛か、それとも旅の道連れか、誰か証人はいなかったのか?
クレオーン 一人だけ、恐怖に戦いて、逃げ出して助かった者がいたが、その者とてたった一つのことしか言えなかった……
オイディプース 何をか? 一つのことも多くのことを指し示すことが出来る、そのなかに一筋の真実の光でもあればな。
クレオーン その者によれば、襲ったのは山賊どもで、大勢いた、彼を殺したのは、一人ではなかった、と。
オイディプース しかし、おまえたちの〈王〉の死を究明するのに何が妨げとなったのか? なぜおまえたちは当時何もしなかったのか、人殺しを見つけ出すために? なぜ?

 オイディプースは知ること行うことの虜となった。それでも彼のこうした勢いのなかには、何か強いられたもの、過多のもの、不毛な激動がある。彼は──語るというよりはむしろ喚きながら──階段を降りて、臣下たちのなかに紛れ込む。
 クレオーンの目のなかに〈王〉の意志の虚ろさを、漠然と皮肉に見てとる光が過る。

クレオーン 当時は……おまえも知るように……町はスピンクスのかける謎の支配下にあった。どうしてわれわれにほかのことが考えられただろう……
オイディプース(叫ぶように) だが、おまえたちがしなかったことを、われがしてやる! 取調べを始めからやり直して、われは何もかも暴いて、この地と神のどちらの仇も討ち、ひとつ残らず吟味して……
クレオーン あの頃には、ほかの噂もあった……
オイディプース してどんな? われはすべてを知りたい……
クレオーン 〈王〉を殺したのは、山賊などではなくて、徒歩の旅人だという……
オイディプース しかし誰がそのことを証言するのか?
クレオーン 唯一の証人が残っている、ほんの少し威しをかければ、きっと口を割るだろう……

  溶暗

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