2009年1月14日水曜日

パゾリーニによるオイディプース王(1~10)



                                                               

1  サチーレの街道
野外。昼。


遅い午後の陽射しの中に、一筋の街道と一軒の家が見える。田舎町の奥の遅い午後の陽射しの中に。そんな時刻には──静けさと無、──そして蠅がいる。
野辺は家並の裏手すぐにまで迫っている。しかしプチブルたちの、慎ましい家並だ。
それぞれの家には蔓棚に、雨樋、玄関には小さな軒縁がある。みな、この後背地を何世紀にもわたって支配した海の都市の貴族の痕跡だ。そう、太陽のほかには何もないだろう。たぶん、小学校の子供がふたり、兵隊がひとり、通るかもしれない。
けれども軍服は一九三〇年代の歩兵のものだろう。



2  サチーレの家
屋内。昼。


家の中ではひとりの女がついいましがた子を生んだところだ。女は、見えない。見えるのは、産婆の両手に抱えられた、生まれたばかりの赤ん坊だけだ。
迅速なドキュメンタリーフィルムを見るかのように観客は、あの人生の最初の瞬間、産声、光への初めての眼差し(鎧戸の隙間から、イドリアの刺繍入りの未加工の布地のカーテン漉しのあの太陽)に立ち合うことになる。



3  リヴェーンツァ川に沿って
野外。昼。


牧場に一枚の毛布。赤ん坊が日向で幸せそうに手足をばたつかせている。彼は小さな目を開けている。お腹はすいてないし、眠くもなくて、元気いっぱい、その時を平和に楽しんでいる。
もしも連れてゆかれるときには──そして二本の手が彼を掴んだが──連れてゆかれるままに任せている。牧場じゅうを連れてゆかれる──ゆっくりかと思えば、走りに走って──運ばれるに任せている。彼のまわりにあるのは、娘たちの腕や脚だ。顔までは、彼には見えない。現実を切れ切れに見る、彼を捕まえる腕たち、辺りを走り回る脚たち、彼、赤ん坊から見れば、それは気の狂ったように走り回る、愉快なかーごめかごめだ。
二本の腕からほかの二本の腕へと移る、その腕たちが胸元へそっと彼を締めつける。
たぶん、辺りには木々、とねりこや黍や柳、とりわけ柳が切れ切れに見えたかもしれない。柳の木立はその長くて涙に濡れた葉を恐ろしい無、闇、何かこの地上のものではないものの上に垂らしている。
いまは赤ん坊の楽しげな頭の上で、いくつもの手が葉っぱを揺り動かし、あたりには娘たちの笑い声とふざけあう声々が響きわたる。また走り出す、辺りにはいくつもの手、腕、脇腹、脚。赤ん坊の目の高さにあるものは何もかも。そして田舎の奥の午後の言うに言われぬあの太陽に包まれた、柳の木立。世界の神秘な一角。北も南もなく、そこから人生の始まる無限の穴。
柳の葉という葉が水面を舐めている。
脚たちがボートの舷側を跨いで、いくつかの手が岸を押し、ほかの手が櫂を掴む。そして辺りには、笑い声と愉快な声々。
いまは柳の木立は空と輝く雲をバックに過ぎてゆく。そして柳の銀色の影をバックに、いまはじっとしている娘たちの、肩、腰、腕が滑ってゆく。
ボートの進みゆくあいだに、赤ん坊は、笑いさざめきの中を、少女たちみなの腕の中を、安心しきって移されてゆき、最後に彼を胸元に抱き締める彼女の両腕の中にたどり着く。赤ん坊のまだ髪の毛の生え揃わない楽しそうな頭の上で、一九三〇年代の裾飾りのついた明るい色のブラウスのスナップを、片手が外すと、そこから真っ白な乳房が出てくる。赤ん坊は幸せそうに乳を吸い始める。そのうちにもボートは緑の水面を、柳の葉裏の稠密な銀色のあいだを、滑ってゆく。
長いあいだ幸せに乳を吸いおえてから、赤ん坊は光り輝く小さな眸を上げて、彼は初めて、そしてぼくらも、彼と一緒に初めて見る。
母親の顔を。
赤ちゃんのうえに屈みこんだ母親の顔。女王みたいに美しい女、目は斜めに長くて、韃靼人みたいで、残酷な甘美さに溢れている。
赤ん坊は笑う。そして、母親と一緒に、初めて、おのれのまわりの世界を見る。
陽射しに葉が透けて見える柳並木と川、
少女たちでいっぱいのボート、みな母親である少女の女友だちだ、
川の入江、そこでボートは岸に着き、その後ろは緑の牧場で、遠くの土手の上には、街道が通り、鉄道も通っているかもしれない。



4  麦打ち場
屋外。昼。


赤ん坊はベンチの上にいる。目を開けている。
何が起きるのか?
何者かが彼に近寄って眺めている、犬だ。
唖の太陽の中に失われて、人類は不思議なことをする。
麦打ち場の真ん中には小麦がある。人類はそれを殼竿で叩いている。
犬は立ち去り、やがて戻ってくる。
小児麻痺の幼い少年が赤ん坊の隣に坐っている。そして彼は笑いに笑う。立ち去りやがて戻ってくる、相変わらず笑っている。
埃を捲き上がらせながら小麦を叩く人類は、いまはみなこぞって走り去り、麦打ち場の奥の、どこかのアーチの中に消える。
それから一頭立て二輪馬車のまわりに戻ってくる。馬が赤ん坊のほんの二、三メートル先までやって来る。そして止まるやいなや、その糞の団子を落としはじめる。犬が行ってその臭いを嗅ぐ。
母親はあちらの下のほうの遠くで、ほかの人類たちといるが、彼らは彼女が女王でもあるかのように、その回りで立ち働いている。ある声が高く強く言っているのが、夢の中でのように、聞こえてくる。

下女の声  はい、若奥さま、はい、若奥さま

赤ん坊は泣き出す。
母親が駆けつけて両腕に抱き上げる。母親の腕の中で、赤ん坊はほかのことも見ることが出来る。
何事かに驚いて羽ばたいて飛び回る二羽の雌鶏。


5 兵営 屋外。昼。

母親は乳母車を押して兵営の中庭に入る。
陰気な建物が辺りを取り巻く、中庭の白い明るさの中を歩兵の兵隊が二、三人ばかり歩いている。
母親はなおも乳母車を押して「中隊本部」まで往く。見苦しい窓辺近くの、かぼそい日陰に乳母車を残してゆく。
〈中隊本部〉に入る。
空では、わずかばかりの燕が数羽、鋭く鳴き交わしている。遠くの大部屋からは、出入りの不可解な人声が聞こえてくる。
兵隊たちの唄声、あるいはリハーサル中の軍楽隊。
父親と一緒に〈中隊本部〉から母親が出てくる。父親は若い将校で盛装している。胸には斜めに群青色の飾り帯、銀色の垂れ飾りのついた肩章、陸軍中尉の階級章のついた丈高の軍帽、腰にはサーベルを吊るしている。
彼がやって来て、乳母車に近づくと、中を覗き込んで恐ろしい微笑みを投げかける。
赤ん坊は表情のない輝く小さな目で彼を見つめる。たぶん早くも無関心を装っているのかもしれない。
燕飛び交う空をバックに、そのプチブル戦士の軍服姿をくっきりと現して、父親が彼を見つめる。
悲劇の中でのように高らかに荘重に響く、おのれの内なる声を父親は聴く。

父親の内なる声 見よ、ここに息子がいる、こやつがこの世界でのおまえの場所で少しずつおまえに取って代わってゆくのだ。そうだ、おまえをこの世界から追い出し、おまえの場所をこやつが取ってしまうことだろう。おまえを殺すことだろう。彼はそのためにここにいるのだ。
彼はそのことを承知している。おまえから盗む最初のものは、おまえの甘美な花嫁だろう。おまえは彼女のすべてはおのれのものと思い込んでいるが、違うぞ。彼女へのこやつの愛がある。して彼女は、それはおまえも知るとおり、すでにこやつの愛に応えて、おまえを裏切っておる。その母親への愛ゆえに、こやつはその父親を殺すのだ。なのにおまえはどうすることもできない。どうすることも。

息子は黙って、父親を見つめる。ときおり小動物みたいに気を散らすが、それでもまた真剣にじっと彼を見つめだす。彼らは互いに分かりあったのだろうか? だからある種の曰くありげな諒解のもとに彼らは黙っているのだろうか?
あそこに少し離れて立つ母親も、若々しいあの甘く美しい花嫁も、その乳房の谷間でたぶんそのことを分かったのだ。微笑む、だがその微笑みは彼女の唇の上で凍りつく。彼女は身動ぎもせずに肝を潰して、まるで予知の暗がりを覗き込むかのように、じっとこちらを見つめている。
兵隊たちの唄声あるいは楽隊。


6 サチーレの家 屋内。夜。

ダイニングルームの中の、その揺り籠の中に赤ん坊はいる。
目は開いていて、待ちながら考えているように見える。
別の部屋へのドアの側柱ごしに母親が隙間見る。
赤ん坊は目を閉じる。たぶん眠っているふりをしているのかもしれない。

母親 眠ってるわ。

母親は隙間見した元の部屋へと戻る。両親の寝室だ。部屋の真ん中に大きなベッドがある。一方の壁際には衣装箪笥が置かれ、他方の壁には大きな窓があって、町の最後の家並とリヴェーンツァ川の柳並木に臨んでいる。
母親はまだ半裸のなりだ。なのに父親のほうはとうにきっかり身支度を終えて、すぐにも外出できる。いまいちど長靴に磨きを掛けるのに余念がない。
母親は夜会用の優雅な衣裳に袖を通す。化粧品片手に、鏡の前で長いあいだぐずぐずする。
父親が彼女に近寄り、あんまり美しいので、ついキッスする。長く、親密で、官能的な花婿花嫁のキッス。いまでは互いに恥じらいなどは無視している。
赤ん坊は、あちらの部屋で、目を閉じている。
両親は爪先立って、起さないように彼の前を通りすぎる。ちらりと彼を見るなり、まるで二人の泥棒みたいにもう外へ出る。
赤ん坊はなおも目を閉じたままでいる。
溶暗
赤ん坊は目を開いているが、泣かない。
いまではもう一歳以上、たぶん二歳かもしれない。
遠くから一九三〇年代に流行った歌の調べが聞こえてくる。「サンタ・ルチーアに」スローな曲だ。
赤ん坊は戸惑って辺りを見回すが、泣かない。
ゆっくりと、あの遠くの調べに導かれるかのように、上掛けを剥いで、小ベッドから降りて、露台に通じるドアのほうへ往き、ドアを開けて、露台のゼラニウムの鉢のあいだを分け入って、手すりの細工を施した鉄柵のあいだに小さな顔をもたせかけて眺める。
世界のとある夜の、とある田舎のある幼年時代の、あの場所には、あそこの下に中庭がある。星も見える月夜だ。蟋蟀と雨蛙の鳴き声は「サンタ・ルチーアに」の調べに覆われている。正面の家、三階のマンションが煌々と明りがついている。夜風がどのカーテンも膨らませて、夜目にもはっきりと白い。その後ろにいくつもの人影が混じり合って、微風に引きずられるように動く影もあれば、止まっている影も見える。
中庭の奥に(しかし中庭だろうか? それとも小広場だろうか?)泉があってその噴水が光っている。そこにはもっと遜った人びとが──年寄りたちが──敷居の上や、藁の解けた椅子や、ベンチに腰を降ろしている。子供たちさえ、たぶんオイディプースよりもほんの少ししか年上でないだろうに、民衆の子だから、それゆえもっと自由だから、とうに夜更かしには慣れっこで、彼らのための夜の中で活き活きしている。みな首を上に伸ばし伸ばし、旦那衆の祭りを眺めている。
風によって膨らみ、強い白色光によって内側から照らされたカーテンを背に、二つの影が来て止まる。影どころか二つの正真正銘のシルエットだ。衣裳からそれと知れる、父親と母親だ。互いに向き合って、横向きに見える。
とても間近に寄り添って、語り合っている。やがて抱き合って、踊り始める。
階下では、庭先で、叫び声と笑い声が沸き起こる。
小さな子供がふたり、四、五歳の男の子と女の子が、大人たちを真似て踊っている。
それからいきなり大音響。物凄い爆発で、地面も揺れるほどだ。そして引き裂くような閃光がいきなり家々の上塗りを白く剥きだして、事物から暗がりを乱暴に毟りとる。
するとたちまち喚声と、批評と、気遣ったりはしゃいだりする声が上がる。
新たな爆発、新たな引き裂くような閃光。
中庭の人びとは鼻を天に向けている。
三階の夜会の人びとは、窓辺に駆け寄って、カーテンも引きちぎりそうだ。小さなテラスで犇めき合っている。そして誰もが叫び、笑い、夜空の何かを指さしている。
赤ん坊は花火を見ることが出来ない。たぶん彼の目の前の空に落ちかかる流れ星のいくつかなら見ることもできただろう。けれども彼は何ひとつ見ない、恐怖に動顛して、目を閉じて、涙に盲ていたから。泣いてそこから離れない。手すりにしがみつき、おのれに起こることに対して何もできない仔牛みたいに絶望しきっている。
それなのにあちらの正面では、なんて大笑い、なんてお祭り騒ぎだろう。父親と母親も、抱きあって、笑顔で静かに、花火を見物している。引き裂くような閃光が不意に彼らを暗がりから毟りとり、チョークみたいに白く浮き上がらせながら、その夜の彼らの若々しい笑顔を定着する。
溶暗
赤ん坊は──いまは静けさが舞い戻り──大人めいた諦めとともにおのれの小ベッドへと足を引きずり、這い登って、横になり、目を閉じる。けれども夜は、その夜はまだ終わっていなかった。
ごく静かにドアが開いて、ダンスパーティから帰った両親が入ってくる。
彼らの赤ん坊の前を通りすぎ、なおも抱擁に縺れあったまま、彼を見つめる。
それから母親が上掛けを直し、小ベッドをきちんと直して、なおもぐずぐずしようとするが、焦れた父親が彼女をつれ去る。
彼らは抱きあって寝室に入ると、キッスしあい、急いで無言のまま服を脱ぎだす。
赤ん坊はあちらで、目を開けている。
いまはもう音楽も流れていないので、蟋蟀と蛙たちがどれほどしきりに、絶望的なくらいにしつこく鳴いているのが聞こえる。夏はその深みにある。熱気が事物の上に浮き出ている。開け放たれた窓からあの虫たちのコンチェルトが入ってくる。そしてリヴェーンツァ川の柳の木立の上に、街道に、平和な野辺に降りそそぐ月の光りも。
彼らの愛の大きなベッドの中では父親と母親が互いに重なりあって、その恥じらいも悪意もない性交の中で、キッスしあい、抱きあっている。
赤ん坊はあちらで、目を開けている。蟋蟀と蛙たちの鳴き声と一緒に、父親と母親の吐息が聞えてくる。大きなベッドの中では、両親の愛は長くて悠々としている。あの暑苦しくて馴染みの月が彼らのために明りを灯していてくれるのだから。しまいに父親は起き上がると、まさにそのときには母親の義務よりもどうしてか一層気高く真剣な、その義務でもあるかのように、行って赤ん坊の様子をみる。
赤ん坊はその揺り籠の中で、またしてもはだけてしまっている。しかし、目は閉じて、眠っている。
父親は彼の上に屈みこんで長いあいだ彼を見つめている。やがていきなり両手を伸ばすと、まるで粉微塵にしたいかのように、赤ん坊の小さな裸足を拳の中に握りしめる。



7 キタイローン山 野外。昼。

オイディプースの小さな身体の向こうには、アフリカ寄りの地中海の燃えあがる空をバックに、薔薇色の大きな山々。
彼の泣き声の辺りには、果てしない夏の無言ばかり。
その小さな身体は仔山羊みたいに、両手首と両足首とで棍棒に括りつけられている。頭はあおのけにのけ反って揺れている。
仔山羊のオイディプースをぶら下げた棍棒を担いだ男のゆっくりとした足取りにつれて、荒れ野の薔薇色の山の中腹がまわりを過ぎてゆく。
大地に割れ目が深ぶかと口を開けている。そして風によって滑らかになるまで削られた大きなテラスみたいな岩の裾襞が、無情にも晴れ渡って鉛のように重苦しい空に向けて迫りあがってくる。
乾いた血みたいに、最も黒ぐろとした赤い石目のある、あの陰気な薔薇色づくしの底に埋もれて、遠く、奥のほうに、陽炎も立たぬ大気をすかして、数本の椰子の繁る小さな谷のささやかな緑も見えてくることだろう。
吊るされて泣いているいたいけな小動物を棍棒で担いだ男が辺りを見回す。
そう、ここなら充分に人けもないし、どんな人の目にも触れるはずはない。小さな身体を岩の上に置いて、棍棒を抜き取る。夢の中でのように両手首を括った縄をほどく。やおら革帯から羊飼いの大きなナイフを抜き出して、振りかざし、赤子の喉を切り裂こうとする……
が、赤子が男を見つめる。長いあいだふたりは見つめあう。
赤ん坊は、そこの地面に裸で、足は縛られたまま。男はというと、農夫の面つきに戻っている。
やがて男は立ち上がり、棍棒を天におっ立てて、行ってしまう。
数羽の鷹が空に輪を描きながら、甲走った声で鳴いている。
血の色をした岩の間を一匹の蛇が滑ってゆく。


8 キタイローン山の別の場所 野外。昼。

なんて見事な小合奏を、コリントスの牛飼いとその見習いの少年はしているのだろう。
血迷った牝羊と牝牛たちが、荒れ野の山の薔薇色の峡谷の、緑の狭い谷でわずかばかりの草を食んでいる。そして家畜たちが食べながら夢の中でのようにその日を送っている間に、番人である彼ら二人は音楽に明け暮れる。
年配の牧人は彼もいくらか惚けた立派な百姓面をしている。ところが少年のほうはいっそ美男子なのだが、彼、若造は下僕の何たるか、てんで分っていない。あるいはまだそれを思い知る歳ではない。彼には関係ないことなのかもしれない。演奏者としての彼の快活な眸は、快活さと挑戦と優雅な無規律を撒き散らしている。
年上の男は真面目にその楽器を奏でる。その荒削りの奇妙な楽器から、当時もそしていまも永遠に、真実で民衆的な、この地上の神話である音楽が奏でられる。
やがて、不意に、ふたりは演奏を止める…… すると、唐突な音楽の中断のあとに続く短い無言の中に、泣き声が聞えてくる。
何が起きたのだろう?
ふたりは互いの瞳の奥を覗き込む。
どんな驚きが彼らを待っているにせよ──荒れ野の中の家畜たちの真ん中に暮らすあの退屈そのものの長い時間の海の中では──それは素晴らしい驚きだ。少年の笑いに溢れるその目はそのことを隠そうともしない。好奇心のほうが憐れみよりはずっと強いのだ、彼はそのことを繕ったりしない。
ずっと偽善者なのは年寄りのほうだ。ただ心配なふりをしている、賢い男だ。けれども牧人たちは二人とも立ち上がると、たちまち興奮にかられて駆け出し、泣き声に耳を欹てながら、獲物を追い立てる猟犬みたいに走りに走る。
岩の間を縫って走り、穴や割れ目を跳び越して、風に削られて滑らかになった岩床に舞い上がる。
泣き声がますます近くから聞えてくる。見よ、あそこに、赤ん坊が岩の上に裸で泣いている。
二人は赤ん坊の上に屈み込み、年寄りが彼を抱き上げて、女たちがやっていたのを見かけたとおりに、不器用に揺らす。赤ん坊はいっそう激しく泣く。見習い小僧は面白がって笑う。
やがて年寄りは、きつく縛られつづけて脹れあがった赤ん坊の両足を眺める。

コリントスの牛飼い なんて脹れた足をしているんだ、おまえは…… どうしてこんなにきつく縛ったり……

そして縄を解くと、小さな足を撫でてはキッスして、何とか痛みを和らげようとする。

コリントスの牛飼い 可哀相な〈脹れ足〉……泣くな、良い子だ、泣くでない……

彼らは荒れ野の薔薇色の奥にある緑の谷のほうにいまでは下りかけている、とそのとき、にわかに人が現れて、彼らの足を止める。岩陰から異様におどけた横目で、ぬっと現れでたのはテーバイの下僕だ。
二人は足取りを緩めて、問いたげに心配そうに彼を見つめる。
テーバイの下僕のほうも、ひっそりと謎めいた眼差しを彼らに投げ返す。が、口を開かない。
そんな様子を見て、問う気よりは好奇心を覚えて、彼を眺めながら二人はほぼ立ち尽くしている。
男は相変らず彼らを眺めながら黙っているが、いまはその顔に満足の色が不可解にも浮かんでいる。
どうしたものかと惑ってコリントスの牛飼いは、男は赤子が欲しいのだろうと考えて、おずおずとその子を差し出そうとする。
テーバイの下僕は、するとうっすらと笑みを浮かべて、目配せさえしかねない…… こちらもつられて、つい共犯の笑みを漏らす。そしてもっとはっきりと赤子を手渡す仕草を見せつける。
しかし相手は、いまははっきりと目に犬ころみたいな幸せの輝きを浮かべて、くるりと背を向けると、逃げ出して、岩から岩へ跳び移り、やがて底知れぬ静けさの中に、姿を消してゆく。


9 コリントス 野外。昼。

「小さな町」はその崩れかけた城壁のなかで、埃の舞う赤い土気色のなかで赤らんでゆく。
崩れかけた赤い城壁の向こうに、崩れかけて赤く、家並が現れ出る。そして職人たちの仕上げた狭間胸壁のある、蛮族風に洗練された小さなずんぐりした塔がいくつか見えてくる……
町の前面は埃の広がりばかりで、遠くに、川の辺の稠密で軽やかな緑が見える。
四方八方から奔流みたいに、人びとや家畜の群れが流れ込んでくる。
町の前面で市場が開かれている。狭い城門の下の中央には、粗野だが同時に蛮族風に洗練された鞣革や黄金の装飾の垂れさがる天蓋が出張っている。
天蓋の下には、群衆たちのパドローネみたいに〈王〉がいる。
彼のまわりには、学者や管理人などの小さな宮廷がある。その日は決算の日で、牧人たちが来ては差し出し受け取っている。
雑踏のなか、砂塵のなかに、見よ、コリントスの牛飼いが見習いを従えてやって来る。
彼は両腕のなかに、そうしたことをしつけていない男の不器用さで、オイディプース、いたいけな〈脹れ足〉を抱えている。
赤ん坊は当然泣いている。だのに、羊や牛の啼き声や人びとの喚き声や、農民たちの大きな行事の際にはいつも欠かしたことのないオーケストラの遠い音色が、その泣き声を包み込んでしまう。
黙って、その荷包みを手に、牧人はおのれの順番を待って、群れたちの長たる〈王〉の前に進み出て、おずおずと──石女の妻をもつ〈王〉には素敵な驚きとなるのか、それとも煩わすだけなのか、不確かで──赤ん坊を差し出す。
ポリュボス王はわけが分からずに彼を見つめるが、秘められた不可解な希望が漲ってくる。
感動のあまり口も利けずに、牛飼いが王を見つめる。
〈王〉は牛飼いを見つめる。
牛飼いが〈王〉を見つめる。
とうとう期待漲る長い沈黙の末に〈王〉が不安そうに口を切る。

ポリュボス王 何をもってきたのだ?
牛飼い ご子息を!……お望みなら……
ポリュボス王 〈幸運の子〉!
牛飼い キタイローン山で、ひとりぽっちだった。あそこで見つけたんで。泣いて、泣いて。拾ってきたのは、思うにあんたが……
ポリュボス王 わしによこせ、おいおまえ、わしによこせ……

そして未開人の喜びに火を吹くような眼差しで、牛飼いの手から赤ん坊を毟り取ると、天高く差し上げる、ヘクトールがアステュアナクスにしたように。すると、オイディプースは、アステュアナクスみたいに、いっそう激しく泣く。

ポリュボス王 〈幸運の子〉!

ポリュボス王は太った多血質の、獰猛で優しい大男だ。百姓の中の百姓なのに、旦那みたいに栄養が行き届いていて、葡萄酒と肉のせいで赭ら顔だ。夜盗みたいな大髭を蓄えて、ガゼルみたいな目をしている。
赤ん坊を高く差し上げたまま、喜びのあまり踊りだす。大股に辺りを飛び跳ねながら、一種のタランテッラを踊る。
それから荒々しく渋面を作って一団の小僧たちを睨みつける、みな母親や父親たちに混じって恭しくその場の脇に控えていた子らだ。そして大声で言う。

ポリュボス王 おい、おまえたち、仔山羊みたいに泣いているこのちびが見えるか? よろしい、このちびはな、〈幸運の子〉はいつの日かおまえたちの〈王〉になるんだぞ!

子供たちは唖然として眺めているが、やや敬意には欠けている。

ポリュボス王 跪いて、コリントスの町の後継ぎの王子に、敬意をこめて挨拶しろ!

彼らの親たち──はや卑屈な、彼ら、屈強な父親や慎ましい母親たち──に押されて、子供たちは跪いてお辞儀する。その間も〈王〉はその喜びの舞踏を続けながら幼子を玉のように振り動かす。
しかし幼子は、無礼にも、何か後継ぎの王子にはまったく相応しからぬことをする。〈王〉は気にも止めずに、濡れた袖と衣装を拭うが、まわりの子供たちは思わず笑ってしまう。再び威厳を取り繕うと、高官たちに訊く。

ポリュボス王 〈妃〉はどこだ?
高官 侍女たちと、川に出かけて、衣裳の洗濯を監督しています……
ポリュボス王 わしの馬を!

すぐに馬が引かれてくる。彼はひらりと跨がると、赤ん坊を胸にしっかりと抱えて、悪漢みたいに出立した。
市場の砂塵のなかで、町の赤い城壁に沿って、人びとは彼の狂った騎行に四散してはお辞儀する。


10 コリントス近くの川 野外。昼。

川は町のすぐ近くを流れている。
棕櫚の林と緑の野性の美しい草地の間で、数人の娘たちが衣裳を洗濯していて、他の娘たちは、アキレウスの楯に描かれた情景そのままに、色とりどりの衣裳を草原に広げている。
〈王〉は町のほうからやって来て、あの下のほうに、空をバックに小さな赤い染みとなって現われる。
濛々とした砂塵の中に馬を止めたから、侍女たちに囲まれて〈妃〉は唖然として彼を眺める。
彼女は魅力的な胸の、美しく強い女だ。とはいえ夫である〈王〉の狂ったような生命力までは身に備わっていない。何事かが彼女を悲しませ、その代わりに彼女を迷信家だが感じのよい農婦たちみたいに慎ましく敬虔な女にしている。
茫然と〈王〉を見つめている。

ポリュボス王 〈妃〉よ、なぜそんなにわしを見つめる? なぜおまえは悲しげに真顔なのか、そしておまえの瞳の中に不安と疑いが読み取れるのはなぜか? 〈妃〉よ、笑え、いっそ、笑って、おまえの神々に祈るがよい。今日われらは息子を見つけたのだ! われらにこの子を送られたのはまさに神々ぞ!

無言で、息せき切って〈妃〉は〈王〉の傍らに駆け寄る。そして彼の手から毟り取るかのように幼子を奪う。

 こちらに頂戴! なんて抱き方をするの! この可哀相な子を、死なせるつもり! 何を手に抱えてるとお思い、じゃが芋ひと袋だとでも?

〈王〉は妻の言い分がもっともだと悟る。ほかにどうしようもないので、そこにいて少し後悔して恥じている。
その間も〈妃〉は、母親の優しさをこめて、赤ちゃんを胸にそっと抱き締めて、揺り動かす。
 おおよしよし、おまえに何をしたの、邪な男どもめが、家畜を蹴飛ばし、手には武器を握りしめて、神々は男どもを呪っているのに、ひとかけらの優しさも、上品さのかけらもないのだから……

赤ん坊は初めて、長い長い苦しみの末に、ようやくおのれの場所を得たのを感じ、安らぐ。泣くのを止めて、まだ小さな顔じゅうを涙でくしゃくしゃにしたまま、女を見上げる。甘く、優しく、守ってくれる母親の顔だ。娘たちも駆け寄って、興味津々、笑いさざめく。

娘たち なんて美しいの!
眸はまるで二つのお星さまのよう!
それになんて美しい巻き毛だこと!

ポリュボス王は馬から降りて、赤ん坊を両腕に抱いている〈妃〉に近寄る。赤ん坊のうえに屈み込んで、顔の前で手や指を揺り動かしながら滑稽な仕草をやりだす。

ポリュボス王 ピーチ、ピチ、ピチ、ピチ、ピチ……

赤ん坊は面白がって彼を見つめる。成功に俄然気を良くして、ポリュボス王はいっそう可笑しげなひとくさりを披露する。このうえなくこっけいなしかめっ面をしてみせては、鼻に皺を寄せ、耳を動かし、髭を上下させ……
赤ん坊は、そんな彼を見て、同じくらい可笑しげに笑いだす。すると母親も笑って、侍女もみな笑う。

妃メロペー あたしの〈脹れ足〉ちゃん、ちっちゃなオイディプース、息子よ、息子よ……

赤ん坊が笑う、笑う。
        

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