2009年1月14日水曜日

パゾリーニによるオイディプース王(11~25)

       11 コリントス付近の競技場 野外。昼。

 一本の投槍が宙をどこまでも飛んで、やがて赤土に突き刺さる。と、また一本、投槍が飛んで、ほんの少し先に突き刺さる。それから三本目が飛んで、震えながら地面に突き刺さる。それからまた一本、また一本。最後の槍はどれよりも遠くまで届く。
 その槍を投げたのは、二十歳くらいの若者で、高い頬骨に、悲壮で荒々しく、幼さと老いの混じる野性的な顔をしている。成人したオイディプースだ。
 勝ち誇って、未開人の輝かしい笑顔で彼が笑う。
 おのれの力に引き寄せられるかのように、勝利をえた投槍めがけて走りより、地面から引き抜くと、踊るように振りかざす。
 後に残された仲間たちは、ゆっくりと投槍のほうにやって来る。敗北に折り合おうとするかのように。
 練習試合だから、辺りに観衆はいない。いるのは汚れて好奇心だらけの腕白小僧が数人と、驢馬を曳いて通りかかる牧人か農夫くらいのものだ。あちらに、木立の蔭に、何人か少女たちがいて、眺めては笑いさざめいて無関心を装っている。

若者 こんどは円盤で試してみよう……

 オイディプースは彼の言うことをろくに聞いていない。狂った生命力に引きずられて、運動用具の積み重なった場所に駆けより、円盤を掴みながら、しかし遊ぶ子供がするように叫ぶ。

オイディプース これで最後だ!……

 四、五人で試合中の若者たちが、一人ずつ円盤を投げる。一人が投げて、円盤が落ちると、みな一緒に駆けより、細い棒を突き立てて飛距離の目印にする。
 こうした一部始終を少女たちは興味深げに見守っているが、確かにスポーツそのものに律儀に見入っているわけではない……
 いまはオイディプースのライバルの(相変わらず無関心を装っている少女たちのなかでいちばん美しい少女が彼らと交わす眼差しにおいても、たぶん、ライバルの)若者の番だ。円盤はとても遠くに、誰よりも遠くに落ちた。
 若者たちが目印の小枝を刺しに駆けだしているあいだ、あの少女は不安そうに不機嫌に眺めている。きっとオイディプースに勝ってほしいのだ……
 さていよいよオイディプースの番だ。彼はくるりと優雅に力強くひと回転する。見よ、円盤は飛び立って、飛んで飛んで、どこまでも宙を飛ぶ。そして落ちる。鈍い音とともに舞い上がる埃を見ればいちばん遠い小枝、最も手強いライバルの目印近くに落ちたことが分かる。けれども、その少し先か、それとも少し手前に落ちたのだろうか?
 オイディプースが稲妻みたいに飛び出して、真っ先にその場所に着いて、見つめる。円盤は敵の小枝よりもほんの少し──毛筋ほども──手前に落ちている。素早く盗人みたいに、爪先で、円盤を小枝の先にそっと押しやる。そして叫びながら小躍りして、おのれの足の不埒な動作を隠すかのように、

オイディプース 勝った!勝った!

 そして、みなを待たずに、相変らず稲妻みたいに速く、少女たちの群れめがけて走りながら、叫ぶ。

オイディプース さあ、冠を被せてくれ、樫の葉枝の冠を。勝ったのはぼくだ!

 最も美しい少女はいそいそと、まるでオリンピック競技のように、勝利者の樫の冠をオイディプースの頭に被せる……
 オイディプースは、愛のこもった微笑みを浮かべながら、彼女の前に頭を垂れて、彼女を見つめる。
 しかしそのとき、ほかのみなが荒れ狂って駆けつける。なかでも怒り狂っているのはライバルの若者だ。

若者 勝ったのはぼくだ! 勝ったのはぼくだ! オイディプースは足で円盤を先へ押しやったんだ! 埃の上にその痕が残ってるぞ!

 そしてオイディプースに跳びかかって、頭から冠を毟り取ろうとする。だが、オイディプースは彼の言葉にとうに激昂していた。彼に襲いかかると、殴りはじめる。拳闘では彼が最も強い。最も乱暴で残忍だからだ。たちまち彼を地面に打ち倒してしまう、口からは血が流れている。
 若者は埃の上を転がって、蛇みたいに彼のほうを振り返る。

若者 〈幸運の子〉め!〈捨て子〉め! おまえの父と母のにせの〈子〉め!

 オイディプースは聾なのか? それとももう言葉の意味が分らないのだろうか? 彼は勝ち誇って面白がって、何ひとつ聞かなかったかのように笑いつづける。


       12 コリントスの王宮 屋内。昼。

 オイディプースは果てしない悲しみの徴された顔をしている。
 両親と食卓につき、辺りには皿を掲げた召使たちが行き来して、楽師がいま風変りな蝉みたいに鳴る楽器で、つねに変わらぬ蛮族風のお道化た執拗な曲を奏でている。
 吟唱詩人の民衆音楽。
 オイディプースは陰気に黙りこんでいる。
 ポリュボス王と王妃メロペーが心配そうに、やはり無言で、代わる代わる彼の顔を覗きこむ。
 オイディプースは気分の悪い獣みたいに、おのれのうちに閉じ籠もって、厭な目つきで、食べ物に触れようともしない。そして溜息をつく。

妃メロペー 息子よ、どうして何も食べないのだい?気分が悪いの?なぜ話さないの?何かあたしたちに腹を立てているの?

 オイディプースは、甘やかされすぎて我が儘な息子みたいに、かっとなってひどい口を利く。

オイディプース もう、うんざりだ!もう百遍も同じことを訊く! ぼくは元気だ、何でもない、たくさんだ!

 ポリュボス王は手近の皿を掴んで、蛮族風の荒々しさで楽師に投げつける。

ポリュボス王 そのくだらない曲を止めろ、阿呆め、みな気狂いにする気か!

 楽師は皿を避けると、すぐにあの特異な楽器を弾くのを止める。
 ほかの楽士たちは目を見合せて、ひどく陽気な舞踏歌を熱心に演奏しだす。
 しばらくのあいだオイディプースと両親は黙って食事をするが、やがてオイディプースが口を開いて、話す。

オイディプース 母さん、今朝の夜中にぼくは悪い夢を見た……思い出せないけど……悪い夢だったことだけは確かだ……泣きながら震え上がって目が覚めたんだ、子供の頃みたいに暗がりが怖くて……神々がぼくに何事かを告げようとしたのに、それが何か、覚えてないとしたら? 思い出せないとしたら? 夜明けまで目を覚ましたまま、無言と闇への恐怖ゆえに背筋が戦くばかりで……お母さん、お父さん、ぼくはデルポイに行って神託を伺ってきたい……この夢の意味を訊いてみたい……思い出せないことを……告げてもらいに……
妃メロペー 息子よ、いいとも!誰でも一生に一度はデルポイの神託所に巡礼に行くというのに、おまえはまだ行ってないんだから! いまはおまえがあそこへ行くべきときだ。あそこへお参りに行くのは素敵だよ、あたしはまだ娘時分に、おまえの父さんと行ったっけ…… 王よ、そうよね? 覚えてらして? あたしたちの祭よりずっと大きな素晴らしいお祭で……
ポリュボス王 あたりまえだ!あのデルポイにはギリシアじゅうから人びとがやって来て、神託所の辺りはいつだってお祭だ! おまえには見たこともないような極上の護衛隊をつけてやろう、馬に、召使に、進物に。ほかのどんな王子もおまえほどには見栄えがしないことだろう!
オイディプース いいえ、父さん、ぼくはひとりで行きたい。
ポリュボス王 ひとりで? なぜひとりで? おまえは〈王〉の子だぞ、ひとりでなんで……
オイディプース 神の前で華美や護衛隊がぼくに何の役に立つ? ぼくが出頭したいのは神の前にであって、それを拝みにゆく人びとの前にではない……
ポリュボス王 しかしな……
妃メロペー あたしたちの息子のいうことが正しい! 神々が欲しているのは富の見せびらかしではなくて、心の真摯さだわ。で、息子よ、いつお発ちだい?
オイディプース 明日の朝、夜明けに。
妃メロペー すぐに? そんなに早く?
オイディプース どうして待たねばならないのさ?あの夢がまた戻ってきて苦しめられるのは御免だね。あの夢の中身をぼくは知りたい。


       13 コリントス付近の野辺 野外。夜明け。

 囲い場のなかで眠りこけている羊たち。
 眠っている一頭の犬。
 傍らに楽器を置いて、眠っている一人の羊飼い。
 一羽のナイチンゲールが囀っている、一本の樹。
 ナイチンゲールの歌声。
 ナイチンゲールの歌声はゆっくりと消えてゆく。するとほら、空の最初の光をバックに、人けのない野辺を飛びくる、雲雀の最初のトリルが聞こえる。

 雲雀のトリル。


       14 コリントスの王宮(中庭)屋内。夜明け。

 夜が白む神聖なくらいの静けさのなかで、中断された眠りゆえに青ざめて〈王〉と〈王妃〉とオイディプースが別れの挨拶を交わす。
 ささやかで厳粛な家族的な出来事だ。
 母親は、ひとりの侍女に助けられながら、息子の振り分けの合切袋のなかに最後の品を詰めこむ。心配そうだ、なのにしっかりした手つきで。
 そのあいだに父親は息子に合図して少し離れた所について来させる配慮さえ見せる。
 そして太鼓腹の下の革帯から、金貨でぎっしりの、よく鳴る小袋を捻り出す。
 それを息子に突き出す、と息子はいくらかおずおずとそれを取る。

ポリュボス王 ほら、ちょっとした額だぞ……旅では何が起こるやら知れたものではないからな、神々の思し召しのままに……
オイディプース(子としての謝意の笑みと、若者特有の金に対する優越を見せながら、呟くように言う) 父さん、ありがとう。

 いまは母親のほうを振り返る、と彼女はあそこに重たい合切袋を手に、やっとのことで立っていながら、それでも背を少し屈めるだけで雄々しく耐えている。オイディプースは駆け寄って合切袋の重荷から彼女を解放してやる、そんなものは彼にとっては枯れた小枝ほどにも重くはないが、肩に振り分けに担ぐ。
 そのときだ、母親がわっと泣き出すのは。短い巡礼の旅に発つ息子に告げる別れにしては何とも不釣り合いな泣き方だ。けれども彼女はどうしても堪えきれない。たぶんそれが母親と息子が別れる初めての折りのせいかもしれない。
 父親みたいにオイディプースは彼女を撫でる、そして女のそんな感動をからかうかのように、微笑みさえ浮かべている。しかし父親までが別れの悲しみに感染していまでは目をきらきら光らせている。そうして辺りには夜明けのこんなにも悲しい光が溢れて、庭の奥にはあんなにも陰気に固まって召使たちが控えている……
 オイディプースの眸からも微笑みが抜け落ちて、まるで驚愕の影みたいに痛ましい予感が瞳を覆う……
 勇を鼓して、彼は母親を愛撫する。

オイディプース 母さん、泣かないで。二、三日もすれば戻るから……二、三日もすれば……母さん、さよなら……父さん、さよなら……

 そして背を向けると、走るようにして遠ざかってゆく。
 お告げの神々によって吹き込まれた、恐ろしい悲嘆に息を詰まらせて、母親はろくに話す力もなく、辛うじて訣れの言葉を吃りながら言う。

妃メロペー さようなら、息子よ……恙ない旅を!さようならあたしの〈脹れ足〉ちゃん!


       15 コリントス 野外。夜明け。

 オイディプースは王宮を出て、崩れた家並の窓なしの赤壁のあいだを、腸みたいに狭くて細長い、町の急坂を下ってゆく。
 夜明けのあの狭い通りには人っ子ひとりいない。たぶん一匹の野良犬と、烏の鳴き声ばかり。
 オイディプースは、重苦しい悲しみに胸を締めつけられながら、なんとか勇気を奮い起そうとする。
 歩幅を伸ばして、軽く口笛を吹きだす。
 そうして赤い埃の町の曲がりくねった径を遠ざかってゆく。


       16 コリントス付近の野辺 野外。朝。

 いまは早くも無人の野辺を歩みゆく。
 彼の背後に町は遠く離れて、高い城壁に閉ざされた、ひと固まりの家並となった。町はその日々の暮しのなかに失われて、遠く離れた不可解な小ささのなかで、異国の町みたいになった。
 そしてオイディプースは大股に、無言のまま進みゆく。


       17 デルポイの神託所 屋内。昼。

 アポローンの神託所のなかは、ミケッティの描く巡礼図の教会のなかといくらか似ている。盲や藪睨み、跛、幼子を抱く母親、中風病み、家族全員のいる民衆的な狂信的な狂乱、そして真ん中に、下男たちに囲まれた高慢な権力者が数人いる。
 神殿の内部には人びとの声と、祈りと、嘆きと、歌声が反響している。
 地面を這いずって、屋根無し託宣所へと近寄る人びともいる。
 この礼拝所の前には、大勢の尊大な司祭たちのあいだに、託宣を待つ人びとの「列」がある。
 この人びとのあいだに、顔を曇らせて、オイディプースがいる。
 次第次第に列が進んで、ついにオイディプースの番がくる。彼は託宣所へと請じ入れられる、そこに〈巫女〉がいる。
 この女は放心して、うわの空で、狂信的で、でっぷり太った女だ。屍みたいな青ざめた顔をして、隈の出来た目は憎しみとヒステリーに漲っている。
 オイディプースがおずおずと、野性的に女の前に進み出るやいなや、そのヒステリックな憎しみの顔つきがさらに際立つ。
 彼女は無感覚に機械的に儀式の手順を踏むと、やがて、どんな類の関与もなしに、官僚的なくらいに、一種の聾の怒りをこめて、神の恐ろしい裁きを、間違いなく罪のある、神に疎まれゆえに彼女に嫌われた、あの若者に告げる。

巫女 視よ!おまえの未来はここに徴されてある、おまえはおのれの父親を殺し、おのれの母親と目合うであろう。こう神は告げられている、ゆえにこのことは避けようもなく成就するであろう。

 オイディプースはわれとわが耳を疑る。かくも驚愕に満ちた単純さをまえに、希望なしに彼を罰するあの短い宣告に、身の毛もよだつ苦悶に締め上げられて彼は身動ぎも出来ない。戦慄のあまり、彼はその場に立ち尽くす。ついに誰かが彼の肩を押して、慌しく出口のほうへと押しやり、次の者のために場所を空ける。


      18 デルポイの神託所 野外。昼。

 深みのある、清浄無垢な、栄えある太陽が神殿前のお祭に光線を浴びせている。群衆の力強いざわめきと一緒に、何もかもから人生の唯一の可能な形とも見紛う人間の喜びが発散している。
 小屋掛け、巡礼たちの列、子供たちの遊びや駆けっこや輪舞、乞食たちの嘆声、あちらこちらに鳴り響く民衆音楽の喧噪、みな世界のほんとうの現実の徴と映るのに、それがいまはオイディプースにはまるで見えてない。
  民衆の楽団による調べ。
 オイディプースは夢のなかでのように、あの群衆の真っ直中を通ってゆく。彼はもう何を見てもそれと分からぬように見える。口を開けたまま辺りを見回し、目には恐怖を滲ませている。追跡されている獣、哀れみを請う乞食みたいに見える。
 雑踏に揉まれながら、行き当りばったりに歩いてゆく。そして彼からは滑り落ちてしまうあの現実の不可解で幸せな象徴を、たまたま彼の目に触れるあらゆる物事を、一つ一つ眺めてゆく。
 腕に抱き締めたり、手を繋いだりして、幼い子供たちを連れている母親や父親たちを彼は見る。担架で運ばれてゆく、黄ばんだ顔に燃え上がる目の病人を、彼は見る。おのれと同じ年頃の豊かな青年たちが傍らの娘たちと幸せそうにしているのを彼は見る。オイディプースにとっては失われてしまった日々の暮らしの真っ直中で、まだ幼年時代に埋もれたままの幼い少年たちが
勝手気ままに、忘れっぽく、遊び戯れているのを彼は見る。
 悪賢く、純真に遊んでいる、つまりは幸せな少年たち。
 オイディプースは脅えながら、口を開けたまま彼らを見つめる。
 遊んでいる少年たち。
 彼らを見つめるオイディプース。
 遊んでいる少年たち。
 彼らを見つめるオイディプース。
 オイディプースの半ば開けた口からは嘆きとも喘ぎともつかぬ声が漏れ出る、しかも機械的に漏れ出たその声に彼は気づいてもいないようだ。彼はおのれを占める苦しみをまだ完全には把握できずにいて、そのためにロボットみたいに苦しみに支配されている。
 呻きながら、彼が遠ざかりゆく。


       19 神託所の付近(コリントス街道)野外。昼。

 背後に垣間見える神託所から遠く離れて、ロボットみたいに彼はいまは歩いてゆく。
 反対側から来て一列になった巡礼者たちが彼と擦れ違う。しかし彼はこんどは盲みたいだ。脇に寄らない。そこで一行は、彼を避けながら、怪物か、それとも薄幸な人を見るかのように、彼を見る。
 彼は再びひとりぽっちになる。
 街道のマイル標石のうえに「コリントス」の文字が刻まれている。
 家に、彼の両親の許に帰る道がそれだ。
 オイディプースはその文字を莫迦になったみたいにじっと見る。
 風に運ばれて神託所からは、無窮の太古の予知の詰まった陽気な民衆音楽がいっそう強く聞えてくる。
 オイディプースはすとんとマイル標石のうえに腰を降ろし、わっと泣き出して子供みたいに泣きじゃくる。
 顔を覆って、彼は長いあいだ泣く。ほかの人びとが通りかかって、異質の者、人間の暮しの規範から外れた者を見るかのように、哀れみと恐れと敵意をこめて彼を眺めてゆく。
 オイディプースは泣く。
  溶暗。
 いまはもう彼は泣いていない。涙はこけた頬に硝子の粒みたいに残っている。おのれの前方にじっと目を凝らす。それから溜息をつく。
 彼はある決心をした。そして機械的にそれを実行する。立ち上がる。コリントスとは反対の方角へ遠ざかってゆく。
 後ろを振り返って、彼の祖国の名前の刻まれたあの石を眺める。
 あの石が遠く小さくなって、ついには見えなくなるまで。


       20 神託所の付近(ずっと遠く)野外。昼。
 
 いまはオイディプースはずっと率直に図々しく歩みゆく。眸は乾いている。もう絶望しきった目ではないがすさんだ目をしている。そう、すさんで、険しいくらいの目つきだ。おのれをどこへ運ぶとも知れぬ道を彼は進みゆく、そうしてこの新たな宿命に、彼は敢然と立ち向かう気でいる、なぜなら不正義はつねに人の心を頑にするものだから。
 見よ、彼はいま分かれ路のまえに立つ。
 そこから発する二本の街道が果てしない地平線に向けて伸びている。地中海の土地のやや明るい青色、夏の猛威に黄ばんだ山々、底の知れない乾燥、蝉の歌声ばかり、その奥の奥には神々の訪れた世界の見知らぬ町々が聳えている。
 オイディプースはその分れ路をまえに、決めかねて立ち止まる。とはいえその躊躇いも人を食った図々しさに近い。右を見、左を見る。彼の宿命の道はどちらの路か?一方のマイル標石には「テーバイ」という文字が、他方の石には別の町の名前が刻まれている。
 固い意志を秘めた仕草で、荒々しいくらいに、彼はその革袋──父親から贈られたあの袋──を開けると、金貨を一枚取り出して、宙に放りあげる。金貨は唖になって埃の上に落ちる。
 オイディプースはそれを拾い上げて、眺める。そして決然と、テーバイへと通じる街道をゆく。
 彼は静けさのなかを、固い意志を秘めて、挑むかのように進みゆく。


       21 テーバイ街道沿いの居酒屋 野外。昼。

 山盛りのいんげん豆の皿。まわりにはパン。そしてそら豆。それにいちじくの小さな籠。
  賑やかに浮かれた民衆舞踏曲。
 夏に蝕まれた大きなぶどう棚の下で、食卓についたオイディプースが食事をとっている。
 二十歳の貪り食らう喜びの深い食欲をもって食べている。おのれ自身との強度な対話のなかで、未熟で健康な獣の喜びをまさに噛みしめながら。
 しかし満たされた空腹ゆえに濁った目をときおり辺りに向けて、短く貪欲な眼差しを投げつける。
 居酒屋には祭の気配が濃くて、たぶん結婚式なのだろう。
 古風な農民楽器を手にしたオーケストラが全力を尽くして演奏している。粗野で気の狂った陽気な曲だ。
 何組もの若者と娘たちが、大きなぶどう棚の蔭で、みな汗をかきながら踊っている。そうした舞踏のひとつで男がその古の千年間のなかで踊る、その舞踏は千年間等しく、夏ごとに土用の休みの巡りくるごとに、蝉たちが狂ったように鳴きしきるなかで踊られていたに違いない。
 小猿みたいに滑稽な酩酊した年寄りたちも踊っている。
 そしてオイディプースはそのいんげん豆を食べている。
 オイディプースと同じ年頃の若者たちのひと群れが、退屈しきった風情で階段の段々に腰を降ろしている。きっと村の不良仲間だろう。確かにオイディプースはその同世代の若者たちに生々しい反感を覚えて、うわの空なのに挑むような眼差しを投げる。そしてなおもそのいんげん豆を食べつづける。
 いまは最も美しいふたり、若者と乙女が、たぶん花婿花嫁が踊っている。
 ほかのみなは、ぐるりと、居酒屋の白い壁際で、輪になっている。
 ひとりの母親がおっぱいにむしゃぶりつく赤ん坊に乳を飲ませている。
 オイディプースはいやな目つきでその光景を眺める。けれど怒って目を伏せるなり、がつがつと食べつづける。
 しまいにあの大騒ぎの最中に、店の主人を呼んで、金貨でいっぱいの革袋を取り出し、勘定を済ませる。
 陰気にひとりきり、オイディプースは居酒屋を出て、お祭をその背後に残してゆく。


       22 テーバイに向かう街道 野外。昼。

 テーバイへと通じる長い街道をオイディプースは歩いてゆく。ひとりっきりだが、悲しくはない。帰ることなく、おのれを待つ世界のなかで、つねに先へと進む、そんな男の宿命に甘んじていた。
 肩に振り分けた合切袋をそびやかせて歩きながら、居酒屋で聞いたばかりの曲のモチーフを口笛で吹く。
 こうして口笛を吹きながら、順調な足取りで歩いて、おのれの思考に浸りきったまま進みゆく。


       23 テーバイに向かう街道(椰子林)野外。夕暮れ。

 その夏の熱気のなかでどこまでも代わり映えのしない薔薇色の荒れ野のなかの一本道がいまは椰子林の緑なす川沿いをゆく。
 日没の時刻だ。
 蝉たちはもう鳴かずに、蟋蟀が啼いている。
 オイディプースは街道を外れて、椰子林のなかの疎らな草地に場所を探す。
 身体を伸ばすと、眠る。


       24 椰子林 野外。夕暮れ。

 いまは夜明けだ。太陽はとうに充分高い。
 太陽の光線がオイディプースの顔を傷つける、二十歳の若者の怠惰さで、深い眠りからゆっくりと抜け出す。
 起き上がり、辺りを見回す。
 深い驚きの表情が、次第に打ちひしがれた顔つきへと変わってゆく。
 彼の合切袋が見当たらない。
 革帯に吊るした、金貨の入った革袋も、見当たらない。何を考え、何をすべきかも分からずに、がっくりと膝立ちになる。夜明けの白々とした光のなかで何もかもが不動で静まり返っている。盗みは奇蹟みたいに不可思議だ。まるで奇蹟が免れがたいのと同じように。
 オイディプースは長いあいだ腰を落とし、跪いている。
 それから固い意志を秘め、また起き上がり、肩を揺すって、おのれに笑いかける。
 街道に舞い戻り、先へと進む。まるで祭に行くのか、それとも、ともあれ、何か目的があるかのようにすたすた歩いてゆく。
 合切袋がないから、彼は身軽だ。取られた袋のことなど笑い飛ばしている。
 こんなにも裸で世界を、彼は進みゆく。いまでは彼にあるのはおのれ自身、その心臓と、往くという固い意志だけである。
 彼の前の道はとほうもなく遠くの地平線あたりの地域に消えてゆく。
 その道に終わりはなく、無という形をもつすべてへと通じる一本の街道だ。
  溶暗
 いまはオイディプースはその街道そのもののずっと先をゆく。
  ある楽器の調べか、それとも遠い歌声か。
 あの全くの静けさのなかに鳴り渡るその不思議な音楽は、その時刻に奇蹟の気配を添えている。それはまたしても古い時代の民衆音楽だが、黒人たちの音楽にも似て、われわれ現代人のとは別のルールに従う音楽だ。地平線の無限にそれは神秘的に入り込む。快楽と同時に恐怖が襲いかかってくる。荒れ野のあの長い道のりをより小さくすると同時に途方もなく大きくし、より心安くすると同時にいっそう非人間的にする。
 あの歌声に惹き寄せられるかのように、長いあいだオイディプースは歩みゆく。
 とうとう街道が川沿いにゆく地点に着く。
 葦原のなかに小舟が垣間見える。こちらに背中を向けて歌いながら弾いているのは、年寄りだ。舳先には、別の種族の神秘的な美しさの少年が、裸で、暗く燃えたつ眸を煌めかせながら、椰子林の緑の岸辺を背に、オイディプースのほうに顔を向けている。


       25 テーバイに向かう街道(村) 野外。昼。

 いまはオイディプースはとある村に臨むところまで着く。いまでは午後も遅く、最初の農夫たちや牧人が村に帰ってくる時分だ。
 頭を切り取って仕上げた塔をいくつか交えながら、村は埃の広がりの上に、赤く無疵に、遠く聳えている。
 相変らず川沿いのここ、オイディプースのいるところには、一種の奉納礼拝堂がある。
 しかしあたりにいる人びとにはそこで祈ろうとする様子も見えない。まるで信者どころではない。
 オイディプースの年頃の若い男たちも何人かいて、不精に柱頭に凭れて、怠惰で挑発的な風情だ。
 少し離れて、ずっと若い小柄な少年たちが二、三人いるが、こちらも早くも彼らの長兄たちの道を歩みだしているようだ。埃まみれの前髪が野性的で悪党らしい風情を添えている。
 年寄り連中もいる。評判の良くない村々の鋳掛屋稼業の年寄りたちか、それとも風まかせにあの村この村と渡り歩いて稼ぐ年寄りか、とりわけ大酒飲みで神を屁とも思わぬ修道士たちか。一頭の驢馬のまわりに集まって、仲間うちで喋っている。
 ひとりの若い男が川辺へと通じる枯れ柴の小森から、疲れているのに威張った様子で進みくる。
 腰を降ろしていた若造たちのひとりがすぐにぱっと立ち上がり、こちらにやって来る男と擦れ違って、小森の小径に姿を消す。
  溶暗。
 しばらく経った。若造たちはみな行ってしまった。
 残っているのは少年たちと年寄りだけだ。いまはここに年配の男があの小径から登ってきて、すぐにオイディプースが少年たちの皮肉な共感に見送られながら小径へと入り込む。
 二十メートルも往くと、見よ、椰子林のなかに狭い空き地がある。
 空き地の真ん中に年配の太った裸の女がいて、大きな乳房を剥き出している。
 オイディプースが女を見つめる。女が彼を見つめる。
 長いあいだふたりは互いに観察しあう。
 オイディプースは数歩女に近寄りながら、不機嫌にじっと女をみる、まるで一人前の男が、内心、何とも知れぬ不思議な感情にうち負かされてするかのように。やがていきなりくるりと背を向けると、走るように来た道を引き返す、その背中をあの女の笑い声が追う。
  女の笑い声。
 オイディプースはまた街道に出る。
 少年たちも興味を惹かれて彼を眺める。けれどもいまは彼らの目には共感よりも皮肉の色が濃く浮かんでいる。それは嘲りに近い皮肉だ。
 オイディプースは振り返りもせずに、その長い道のりをひとり、遠ざかってゆく。

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